近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
和歌山市街に戻り、以前から食してみたかった店にてメシです。

井出商店(ハローワーク和歌山近く)
「和歌山ラーメン」を全国に知らしめた店。実食です。
昨日昼に食した店ほどではないが、臭みの残るスープ。化調も多めか。
ありきたりの中細直麺は少な目で、薄いチャーシューが3枚と細いメンマが
4,5本に極薄の蒲鉾。くそ狭い店内にぎゅうぎゅう詰めにされて…
値段も考えると不満の残る一杯でした。

中華そば
気を取り直して、紀伊國に鎮座する一宮、三社の最後の一つ
「日前神宮・國懸神宮」へ。



日前神宮
祭神 日前大神
相殿 思兼命・石凝姥命
國懸神宮
祭神 国懸大神
相殿 玉祖命・明立天御影命・鈿女命
謹みて按するに日前國懸大神は天照大神の前霊に座しまして其の稜威名状すべからざる太古天照大神天の岩窟に幽居ましし時群神憂い迷い手足措く所を知らず諸神思兼命の儀に従ひて種々の幣帛を備へ大御心を慰め和め奉るに當り石凝姥命天香山の銅を採りて大御神の御像を鋳造し奉る。
是日前神宮奉祀の日像鏡(ひがたのかがみ)國懸神宮奉祀の日予鏡(ひぼこのかがみ)にして二鏡齋き祀る。
例祭 九月二十六日
和歌山市秋月鎮座 -案内板より
参道は、突き当たりで左右に分かれ、
左に「日前神宮」右に「國懸神宮」が鎮座しております。

日前神宮


御由緒
創建二千六百餘年を溯る日前神宮・國懸神宮は、同一境内に座します二社の大社をなしております。
日前神宮は日像鏡(ひがたのかがみ)を御神体として日前大神を奉祀し國懸神宮は日矛鏡(ひぼこのかがみ)を御神体として國懸大神を奉祀しております。
神代、天照大御神が天の岩窟に御隠れになられた際、思兼命(おもいかねのみこと)の議(はかりごと)に従い種種の供物を供え、天照大御神の御心を慰め和んで頂くため、石凝姥命(いしこりどめのみこと)を治工とし、天香山(あめのかぐやま)から採取した銅を用いて天照大御神の御鏡(みかがみ)を鋳造しました。
その初度に鋳造された天照大御神の御鏡前霊(さきみたま)を日前國懸両神宮の御神体として、後に鋳造された御鏡を伊勢の神宮の御神体として奉祀されたと『日本書紀』に記されております。
天孫降臨の際、三種の神器とともに両神宮の御神体も副えられ、神武天皇東征の後、紀伊國造家の肇祖に当たる天道根命(あめのみちねのみこと)を紀伊國造(きいのくにのみやつこ)に任命し、二つの神鏡を以て紀伊國名草郡毛見郷の地に奉祀せられたのが当宮の起源とされています。
その後、崇神天皇五十一年、名草郡濱ノ宮に遷宮され、垂仁天皇十六年には名草郡萬代宮すなわち現在の場所に遷幸され、永きに渉り鎮座の地として今に至っております。
爾来、天道根命の末裔である紀氏(きいし)によって歴代奉祀され、両神宮の祭神が三種の神器に次ぐ宝鏡とされたために、伊勢の神宮に次いで朝廷からの崇敬も篤く、延喜の制には両社とも明神大社に列し、祈年(としごい)、月次(つきなみ)、相嘗(あいなめ)、新嘗(にいなめ)の祭祀には天皇から幣帛(御供)を賜るほどでありました。
また古くから紀伊國一之宮として一般の人々からも崇敬をあつめ、両神宮の総称を「日前宮」(にちぜんぐう)とし、親しみをもって呼ばれています。
戦国時代におきましては、豊臣秀吉の天正の兵乱により境内荒廃、社領没収の憂き目に逢いましたが、徳川の時代に入り紀州藩初代藩主、徳川頼宣(とくがわよりのぶ)が入国されるや社殿を再興され、明治四年太政官布告による神格の制が治定されると、官幣大社(かんぺいたいしゃ)に列し、敬神崇祖の大義を示すことと相成りました。
大正八年の国費による境内建物すべての改善工事によって旧観は一新され、大正十五年三月の完成をもって現在の姿となっております。 -日前神宮・國懸神宮公式Webより

國懸神宮


つづく
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