近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら

本日もイイ天気な8日目。元気に出発します。


最初に訪れたのは「丹生都比売神社」全国に約180社ある
丹生都比売神を祀る神社の総本社であり、紀伊国一宮であります。

御由緒
紀ノ川より紀伊山地に入り標高四五〇メートルの盆地天野に当社が創建されたのは古く、今から千七百年前のことと伝えられます。天平時代に書かれた祝詞である『丹生大明神祝詞 にうだいみょうじんのりと 』によれば、丹生都比売大神は天照大御神の御妹神さまで稚日女命 わかひるめのみこと とも申し上げ、神代に紀ノ川流域の三谷に降臨、紀州・大和を巡られ農耕を広め、この天野の地に鎮座されました。
また、『播磨国風土記』によれば、神功皇后 じんぐうこうごう の出兵の折、丹生都比売大神の託宣により、衣服・武具・船を朱色に塗ったところ戦勝することが出来たため、これに感謝し応神天皇が社殿と広大な土地を神領として寄進されたとあります。
ご祭神のお名前の「丹」は朱砂の鉱石から採取される朱を意味し、『魏志倭人伝 ぎしわじんでん』には既に古代邪馬台国の時代に丹の山があったことが記載され、その鉱脈のあるところに「丹生」の地名と神社があります。丹生都比売大神は、この地に本拠を置く日本全国の朱砂を支配する一族の祀る女神とされています。全国にある丹生神社は八十八社、丹生都比売大神を祀る神社は百八社、摂末社を入れると百八十社余を数え、当社は、その総本社であります。
丹生都比売大神の御子、高野御子大神は、密教の根本道場の地を求めていた弘法大師の前に、黒と白の犬を連れた狩人に化身して現れ、高野山へと導きました。弘法大師は、丹生都比売大神よりご神領である高野山を借受け、山上大伽藍に大神の御社を建て守護神として祀り、真言密教の総本山高野山を開きました。これ以降、古くからの日本人の心にある祖先を大切にし、自然の恵みに感謝する神道の精神が仏教に取り入れられ、神と仏が共存する日本人の宗教観が形成されてゆきました。中世、当社の周囲には、数多くの堂塔が建てられ(絵図参照 3DCG再現映像)明治の神仏分離まで当社は五十六人の神主と僧侶で守られてきました。
また、高野山参詣の表参道である町石道の中間にある二つ鳥居は、神社境内の入口で、まず当社に参拝した後に高野山に登ることが慣習でした。
鎌倉時代には、行勝上人により気比神宮から大食都比売大神、厳島神社から市杵島比売大神が勧請され、社殿が北条政子により寄進され、本殿が四殿となり、このころから舞楽法会が明治のはじめまで盛んに行われます。現存する本殿は、室町時代に復興され、朱塗りに彫刻と彩色を施した壮麗なもので、一間社春日造では日本一の規模を誇り、楼門とともに重要文化財に指定されています。
尚、平成十六年七月「紀伊山地の霊場と参詣道」の丹生都比売神社境内として世界遺産へ登録されました。 -丹生都比売神社公式Webより
外鳥居をくぐり、鏡池に架かる輪橋を渡ります。

輪橋の先には、禊川に架かる禊橋。


そして、美しい朱色の中鳥居の先に楼門が見えます。

楼門 (明応八年(1499)造営)
三間一戸の入母屋造、檜皮葺。重要文化財に指定されています。



拝殿まで行く事が出来ないので、楼門の前でお参り。
楼門奥の最上段に向かって右手から第一殿・第二殿の順で一列に並び、
第四殿のさらに左手には若宮が鎮座しております。

本殿は、いずれも一間社春日造の檜皮葺で、
第一殿は江戸時代の正徳五年(1715年)
第二殿は室町時代の文明年間(1469年-1486年)
第三殿は明治三十四年(1901年)
第四殿は室町時代の文明元年(1469年)の造営であります。

各殿内とも鎌倉時代の嘉元4年(1306年)銘の一間春日見世棚造の宮殿を
納めており、本殿前身の社殿と見られています。
これら四殿は、附指定の宮殿を加えて「丹生都比売神社本殿」として
国の重要文化財に指定されています。

境内社を拝して、丹生都比売神社をあとにしました。

佐波神社 (明治期に上天野地区の諸社を合祀)

紀伊國一之宮 丹生都比売神社
御朱印
つづく
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