近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
紀州東照宮に続いて訪れたのは「都麻津姫神社」です。
伊太祁曽三神と総称される、素戔嗚尊の子
「五十猛命」「大屋津姫命」「都麻津(枛津)姫命」の
都麻津姫を主祭神とする式内社(名神大社)であります。

社頭の案内板は、読めませんでした。

由来
『本神社明細帳』に依れば、この社は『本国神名帳』に「名草郡従五位下吉禮津姫神」とあるが、この神は古書に見る事が無く、其の由来も知る事が出来ない。
しかし、吉禮の地に最古より鎮座するこの御社は、往古は神田も多く、境内も広潤で、社殿も壮麗であったと云われている。
偶々天正の兵火に罹り、「神宝・旧記」等悉く焼失し、其の後は諸事衰廃して、遂に神名も定かでなく、俗に山王明神とか都麻津姫神と称したようである。
その中、元福善寺と云う別当が居り、この社を寛文年中に『延喜式』所載の「都麻津姫神社」であるとして奉祭して来たが、明治に入り県の「令達」により、「吉禮津姫神社」と改称せられ、明治6年に村社に列せられた。
また、明治41年に幣帛供進使の神社に指定された。
しかし、左右両社に「五十猛命・大屋津姫命」を祀れるを見ると、『日本書紀』『三代実録』『神祗全書』『紀伊國名所図絵』等の書に載る「都麻津姫命」であるとして、宗教法人設立に際し、社名復旧して「吉禮津姫命」と合祀し、昭和21年より「都麻津姫神社」となった。
このような変遷を招く他の因として、この旧吉禮村は往昔より西部に、別に「吉禮津姫神社」と称す小祠があり、今から数百年前、東西に分裂し、東部を東禮といい、「都麻津姫神社」を、一方西部を西禮と称し「吉禮津姫神社」を奉り、各氏子区域を分け、信念を異にして常に紛乱の基となった。
これを憂いた当時の有力者が、「都麻津姫命・吉禮津姫命」を合祀した。
現に境内には「吉禮津姫神社」の小殿があり、西部即ち、西禮に今もその跡地も存し、西禮・東禮の名も残っている。
要するに合併した事に依り、当時の人々は自然と「吉禮大明神」として崇める事となり、其の後は「都麻」は、建造物の「妻造り」や「妻」に通ずる為か、「地鎮祭」「安産祈願」「初宮詣」等で訪れる人も多かったと伝えられている。 -和歌山県神社庁Webより


ご祭神は、
主祭神
都麻津姫命
相殿:吉礼津姫命
配祀神
左殿:五十猛命
右殿:大屋津姫命 で、ございます。

随垣に囲まれている本殿


大屋津姫命 五十猛命

稲荷社

都麻津姫神社
妻の宮 御朱印
社務所は開いておりましたが、無人でしたので電話をすると、
優しい感じの奥様がいらして「神職不在の為、御朱印は郵送になる」と。
お手数をおかけする事になりますが、お願いしました。
ご丁寧な対応、ありがとうございました。
つづく
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