~西へ~(52)7日目⑧ 和歌山県護国神社 | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
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神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

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和歌山城ない南西に鎮座します「和歌山縣護國神社」です。

 
 社号標                二ノ鳥居(石造 昭和13年9月建造)


 三ノ鳥居(合金 平成4年3月建造)

         

 由来
招魂祭
明治戊辰の役以来、国家のため散華され、靖国神社に合祀された本県出身の戦没者を奉慰するため、明治13年から明治28年までは、年1回和歌山市岡公園内の天妃山で、明治29年から昭和11年までは和歌山城内砂ノ丸において、和歌山県知事が祭主となり毎年5月5日神式により招魂祭が執行されて来た。
その後のあゆみ
招魂社
昭和3年に入り和歌山県招魂社建設期成会が発足、招魂社建設に向けて第一歩を印した。
その敷地として、徳川時代からの神域であった現在地を和歌山市から譲渡をうけた。
(昭和12年9月29日の和歌山市議会において3,090㎡の無償譲渡議決)
昭和12年6月11日、木造流れ造り44㎡の御社殿および木造平家一棟114㎡の社務所が創建された。
(この社務所は、昭和20年7月米機の空襲により焼失、昭和22年木造43㎡の社務所が再建されたが、粗造建物であったため、老朽化に伴い、昭和49年撤去された)
昭和14年4月1日内務省令により、全国一斉に招魂社は護国神社と改稱され、内務大臣指定神社となる。
(全国の護国神社数52社)
昭和37年5月24日、昭和天皇・皇后両陛下の御親拝を賜る。
(境内に御親拝記念碑現存)
昭和62年11月17日不審火により社殿全焼。
同63年5月再建奉賛会発足、募財開始。
募財総額 325,286,576円
地鎮祭 平成2年11月24日
遷座祭 同4年1月22日         -和歌山県神社庁Webより 



 社殿(鉄筋コンクリート銅板葺流れ造 内装檜材使用 中屋根檜皮葺)


 拝殿ない


 天皇皇后両陛下御親拝記念碑 昭和三十七年五月二十四日 

        
  「礎」の碑 歩兵第二百十八聯隊         「鎮魂」の碑
    (椿六八四四部隊) 
「礎」の碑
碑文(1)
 祖国と同胞の楯として戦野に散った3千有余柱の雄々しいみ魂よ
相励ましつつ砲煙弾雨に挺身した懐しい面影よ
運命の不可思議にふたたび故国の土を踏み得た我ら 今日太平の礎は兄らが赤誠と碧血の上に成るを想い 年々歳々感謝と追慕を新たにする
世ののちまで永く憶念のよすがとならん事を願って ここに一碑を建てた
み魂 安らかにあれ
 昭和53年4月
 歩兵第二百十八聯隊戦友一同

碑文(2)
 第34師團歩兵第218聯隊(椿6844部隊)は昭和14年3月和歌山において編成
同年4月軍旗を奉じて中支戦線に参加し20年8月終戦に至るまで終始第一線にあり
強固な団結と旺盛な士気を保持して郷土の名を辱めなかった
この間 湖北新州・江西南昌周辺の戦闘にはじまり両次にわたる錦江作戦 浙■・江北・江南また常徳等の諸作戦に敢闘
さらに派遣軍掉尾の大陸打通大作戦の一環たる湘桂作戦には 舟艇機動の独立支隊として寡兵挺身し ことに衡陽攻略に勇名を馳せた


     
 「鎮魂」の碑 碑文(左)
 日本国の防人として ひたすら永遠の平和を目指して 栄ある軍旗のもと北満の野に はたまた中支南方戦線にその青春の純潔を捧げ 自ら進んで国難に殉じた1万余柱の御霊よ 生死を共に相励ましつゝ骨をも凍る酷寒の地に あるいは赤道直下の炎熱と悪疫のジャングルに 砲煙弾雨のなか砂塵にまみれ 獅子奮迅の死闘に敢然と身を挺したあの元気な懐かしき面影よ 我等いま過ぎし日の想い出を 辿るとき万感胸に迫りて涙の止まるをしらず 戦友の赫々たる武勲は燦然として千載に輝く
天命の定めにより生きながらえた我等 今日の平和と繁栄は偏に諸霊の築かれた礎の上にあることに想いを致し 衷心より感謝の誠を捧げ 常念の心常にして 我等の願いを建碑にこめ後世に遺すものである 願わくは御霊よ此処に鎮まりて倶会一処の妙果を証せんことを
 昭和55年(1980年)5月吉日
 歩兵第六十一聯隊戦友会

 「鎮魂」の碑 碑文(右)
 明治38年8月8日軍旗を拜受。
歩兵第61聯隊誕生す。
日露戦役のあと和歌山市を衛戍地とし、郷土部隊として県民に親しまれ、信頼されつゝ国土の防衛に任ず。
昭和12年4月北満の警備と治安維持に出動 同14年8月第二次ノモンハン事変に派兵さる。
同15年7月中支湖北省に転進 常に第4師団の主力として漢水、豫南、大洪山、江北、長沙の各作戦に参加して奮戦す。
昭和16年12月第二次世界大戦勃発するや 同17年2月北部ルソン島に進撃、第二次バタアン攻略戦に敵主陣地サマット山を撃破 引続き米極東軍の難攻不落を誇ったコレギドール島要塞に敵前上陸を敢行し占領、本間雅晴軍司令官より部隊感状を授与さる。
昭和17年7月凱旋、同18年10月スマトラ島に進駐、同19年5月ビルマのインパール作戦の援護に転戦、同20年2月タイ国に進駐、昭和20年8月15日中部ナコンナヨクの山中にて終戦を迎え、軍旗を奉焼し、茲に栄光の幕を閉ず。


 
「あゝ予科練」の碑(左)
碑文
 予科練とは海軍飛行予科練習生即ち少年飛行兵の称なり
航空機搭乗員として英才の早期養成をめざし昭和5年この制度発足以来大東亜戰争終結迄學業半ばの少年が七ツ釦は桜に錨とと志し
   卓越せる技倆
   旺盛なる攻撃精神
   崇高なる犠牲的精神
を基に日夜猛訓練に耐え大空に巣立てり
支那事変には海鷲として渡洋爆撃の初陣以来開戦劈頭ハワイマレー沖航空戦にその威名を世界に轟かせ我が航空戦力の中核となるも戦局利あらず敵本土に迫るや悠久の大義に滅せんと自らを爆弾に変え身をも命も惜しまず特攻機と共に未曾有の國難に殉じたり
祖国永遠の平和と安泰を祈り散るべくして散り得ざりし我等予科練出身者は英魂の萬古に安らかならん事を祈念しつつこの碑を建立し大空に眠れる御霊に捧ぐ
 昭和44年11月3日
 予科練和歌山県人会

「魂」の碑(右)
碑文
 戦後33周年を迎えるに當たって 遠く南瞑瘴癘の地に斃れた戰友 我等と共に戰って異郷に骨を埋めた幾多の英霊を偲び 碑を建て 英魂録を収め 我が部隊の戰史を刻記して この地に永久に留めるものである
 昭和52年10月
 關西歩二三〇の会
 戰友一同

部隊戦史
 昭和14年8月7日歩兵第230聨隊は(通稱沼8926部隊)第38師団(名古屋)隷下として編成完了
同年10月から南支派遣軍として広東省附近に駐屯諸作戰に参加
昭和16年12月8日大東亜戰争緒戰に香港島攻略に偉功を樹てたが損耗甚大とのため昭和17年1月3日広東駐留の歩兵第161聨隊より兵員補充
その要員は和歌山大阪兵庫健児総勢1千余名
昭和17年3月ジャワ島Xマトラ島作戰に参加
昭和17年10月14日ガダルカナル島に上陸
ルンガ飛行場総攻撃に参加したが遂にならず補給絶え弾薬糧秣なきまゝ尚敢闘したが部隊の被害90%を越える
昭和18年7月ニュージョージア島作戰に参加
昭和21年5月復員完了


 
 顕彰碑 満蒙開拓青少年義勇軍(左) 
碑文
 昭和12年11月30日満洲建國の一翼を担う平和部隊として青少年義勇軍を訓練送出することが國策として決定せられ昭和20年迄に総数8万6千有余名が送出された
之等15、6才の青少年達は義勇軍綱領「我等義勇軍は天祖の宏謨を奉し心を一にして追進し身を満洲建國の聖業に捧げ紳明に誓って天皇陛下の大御心に副ひ奉らんことを期す」を遵奉してひたすら心身をかため世界青史に燦として輝く基礎を着々かためつゝあった秋予期しない終戦によって世紀の偉業は屯座し言語に絶した犠牲は永久の礎石として現地に残ったのである
わが和歌山県選出の義勇軍千5百有余も此の聖業に参■し自ら刻んだたくましい拓魂は今新しい意気と力となって生きている
茲に同志相計らい顕彰碑を建て後世に伝えるものである
 昭和38年10月12日
  和歌山県選出隊員一同
副碑・碑文
 土の戦士として大陸に渡り第二の故郷建設と北辺鎮護の任務を遂行中 不幸にして若い命を国に捧げた亡き拓友のみ魂永久に安らかに
  和歌山県拓友会
 昭和38年10月12日建碑
 昭和54年3月30日改修

「空」の碑 (右)
碑文
 つつしみてこの碑を
陸軍航空戦士たちの霊に
そしてすべての
陸軍少年飛行兵の
還らざる
青春に捧ぐ
 昭和四拾参年五月
 和歌山少飛会

若鷲に捧げる言葉
 昭和9年(1934年)日本陸軍に少年飛行兵の制度が誕生した。
至誠、純真、元気、周到の校訓を旨に日夜訓練に励み、操縦通信整備の分科に巣立った若人たちは、祖国の危急を救うため戦乱に身を投じその多くは蒼天の涯に消えていった
しかし昭和20年夏敗戦辛苦に耐えていま日本は画期的な飛躍を続けている
けれど私たちはなおあの戦いの日の友たちの紅顔を忘れることはできない
なかでもふる里と訣れ雄々しくも散っていった紀州健児を憶う
ここにその栄光を永久に称えこころの碑を築いて戦友への限りない挽歌を捧げる
 陸軍少年飛行兵
 和歌山県出身生存者一同



全ての兵者に敬意を表しますと共に、英霊の御霊に感謝の誠を捧げます。


        
         和歌山県護国神社 御朱印




                             つづく







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