近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
表坂より、和歌山城本丸に上がります。

S字の石段も石垣を見ながらですので、楽しく上がれます。

標高50m弱。すぐになだらかな道(帯曲輪?)になりました。


坂の途中には、本丸御殿にあった七福神に見立てた石組が移設されてます。


七福の庭
この石組は「七福の庭」と呼び七福神の姿に似た名石を巧みに配して宝船乗合いを模したものであります。
紀州徳川藩始祖頼宣公(家康の第十子)が藩の永久の隆盛を祈念して元和7年(1621)本丸御殿の中央に作庭したと伝えられ久しくその妙技を珍重されていましたが大正12年(1923)本丸御殿跡に上水道貯水池設置のため石組をここに移したものです。 -案内板より

更に上ると左手に櫓跡の石垣。

ここで、また道はS字に曲がります。

天守一の門跡(虎伏山東峰と西峰間のコル)です。

和歌山城史跡解説 「本丸御殿跡」
和歌山城のある虎伏山は、ラクダの背のように東西に峰があります。天正13(1585)年、羽柴(豊臣)秀吉の命で弟の秀長がまず築城したのは、この山頂部分でした。慶長5(1600)年、関が原の戦いの後に和歌山城主となった浅井幸長は、城の大規模な修築を行い、東の低い峰を二の丸にし、御殿を建てました。この部分は東西29間(約57m)、南北27間(約53m)で不等辺五角形の形をしています。
元和5(1619)年に徳川頼宣が入国すると、本丸となり、本丸御殿と呼ばれます。しかし、地形的に不便で手狭なため、時に謁見の場として利用するぐらいで、ほとんど空屋敷となりました。ただし、幕末に短期間でしたが、参勤交代が中止となり、江戸藩邸にいた藩主の正室(御簾中)たちの帰国が許されると本丸御殿を一時使用しています。
明治時代、廃藩により本丸御殿は解体され、御台所は市内大垣内の光恩寺に移築されています。本丸御殿の中庭は七福の庭と呼ばれ、七福神を表現した石組がありましたが、給水場が設置されることになり、大正12(1923)年に工事が始まると、現在地の松の丸へ移されたのです。 -案内板より

天守のある西峰に向かいます。

連立式層塔型3重3階天守(コンクリート外観復元)

本丸西峰(天守丸)虎口
つづく
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