~西へ~(49)7日目⑤ 日本100名城 和歌山城Ⅴ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。


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弘化三年(1846)落雷により、御殿を除く大小天守など本丸の主要建造物が
全焼した和歌山城ですが、嘉永三年(1850)に大小天守等が再建されます。
そして、昭和十年(1935)には、天守など11棟が国宝に指定されます。
しかし、昭和20年(1945)7月9日の米軍による大規模な無差別爆撃により、
天守などの指定建造物11棟すべてが焼失してしまいました。




西之丸庭園を通りぬけます。


   名勝 西ノ丸庭園沿革
この庭園は、紀州徳川藩祖頼宣公が西之丸御殿に築造したもので、昔から紅葉渓の名で親しまれてきた。
浅野時代に築かれた内堀の一部と虎伏山の山稜地形を巧みに利用した起伏の変化に富んだ庭で、南西の高台地には、雄健な三つの滝とその落水を導く渓流、美しい出島と巨大な舟石が浮ぶ池、柳島のある堀池からなり、急峻な斜面や護岸には緑色や紫色などの紀州の名石で、豪快な石組が施されている。
紅葉渓橋・土橋・石橋をかけ、鳶魚閣・腰掛・茅門の建物が要所にそなわり、古い樹林が興趣を添え、その破墨山水的景観は、江戸時代初期に作庭された名園である。
なお、茅門南の鶴之渓は、浅野氏により造られた城壁に囲まれ、当時、「鶴之餌鉢」を置き、鶴が飼育されていた由緒あるところである。 -案内板より

  

鶴の門跡を通りると「砂の丸跡(現 砂の丸広場)」です。



砂の丸の北隅には「吹上門」南隅には「追廻門」がありました。


 追廻門虎口(内側)

 
 和歌山城史跡解説 「追廻門」
追廻門は西から和歌山城(砂の丸)に入る門で、大手門の反対側の搦手に位置します。門を出て道を隔てた外側に、馬術を練習する追廻があったので、この名がついた高麗門形式の門です。元和5(1619)年に紀州徳川家初代頼宣が入国し、和歌山城を拡張して砂の丸や南の丸の内郭に取り込みました。当然、追廻門もその際に建立されたもので、岡口門とともに空襲でも焼けずに残った旧藩時代の数少ない遺構です。追廻門は藩主が座る二の丸御座之間の南西に位置し、陰陽道の裏鬼門にあたるので、除災のため朱色に塗られたと考えられています。
吉宗に次いで14代将軍家茂を出した紀州徳川家は、幕末には当然幕府側につきました。第二次長州戦争には先鋒隊として出陣しますが、戦費で藩財政が苦しくなり、その敗北で兵制改革の必要性を痛感します。このため藩政改革が求められ、慶応2(1866)年に津田出を登用しました。だが翌年、保守派の反撃で津田は失脚し、急進改革派であった奥右筆組頭の田中善蔵が、追廻門で暗殺される事件が起こります。左手の石垣に近い垣根の奥にある石碑は、田中善蔵の顕彰碑です。
-案内板より



 現存構造物の追廻門(外側)



再び、追廻門から城内に戻り、和歌山護國神社に参拝をし、南の丸へ。
(護國神社は後記します)



南の丸跡は、小さな動物園となってます。



左手石垣の上は表坂となっており、先には高石垣が。

 

岡中門跡をぬけ、表坂を上がり、本丸を目指します。

 





                             つづく







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