~西へ~(48)7日目④ 日本100名城 和歌山城Ⅳ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。


                     近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら





元和五年(1619)、浅野氏に代わって徳川家康の十男・頼宣が和歌山城に
入城し、南海の鎮となる御三家の紀州徳川家が成立します。
頼宣は、元和七年(1621)、城の改修と城下町の拡張を開始しました。


 切手門跡



この辺りの石垣も「野面積み」と「打ち込ハギ」が混在していました。

    
  穴蔵状遺構
発掘調査により、石垣に組み込まれた形で穴蔵状の遺構が発見されました。 床面は、入口から約2/3の広さで瓦製の塼(せん)が四半敷(ひし形に目地のある敷き方)され、奥側約1/3は盛土され、土堤状となっていました。 なにか特定のものを収納する施設であったと考えられます。 江戸期でも大奥付近に石室(いしむろ)と呼ばれる施設があり、非常の際大奥用の調度などが納められたところと考えられています。 なお、穴蔵状遺構は、明暦元年(1655)の火災以降、入り口が閉ざされ埋め立てが行なわれています。 御橋廊下が架かっていた時期には利用されていなかったと思われます。  -案内板より
 化石のある和泉砂岩
この砂岩は、穴蔵状遺構付近の石垣に使われていた。よく見ると、少し濃い色の模様があることがわかる。これはコダイアマモ(植物)と呼ばれる化石で、約7000万年前と考えられている。和泉砂岩は、和泉層群の岩石で形成され、地質時代は、中世代白亜紀の末とみられています。この付近の石垣には、和泉砂岩が使用され、友ヶ島(和歌山市)から採石されています。今も友ヶ島には石を切り出した砕石場が残され、コダイアマモの化石も発見されています。このことは、和泉砂岩の石垣が友ヶ島などから、もち込まれたことをものがたっています。 -案内板より


 西堀を利用した「西の丸庭園」


 二の丸と西の丸を繋ぐ、御橋廊下
 
 御橋廊下ない
藩主のお寛ぎの場・西の丸と生活の場である二の丸大奥とをつなぐ廊下橋。
藩主とお付の侍、奥女中が二の丸と西の丸を行き来するために徳川期にかけられ、
風雨を避け、外から姿が見えないように屋根と壁が設けられています。両岸の
高低差のため斜め(約11度の角度)にかかる全国的にも珍しい橋で、滑らない
ように廊下の床板を鋸歯状に組んでいます。
江戸時代の図面を基に平成18年復元されました。 -案内板より



 復元・御橋廊下(おはしろうか)
発掘調査により出土した御橋廊下の礎石
平成11年(1999)12月から平成12年(2000)3月にかけて、御橋廊下が建っていた場所や石垣の取り付き部分の発掘調査が行われ、堀底から礎石や瓦などが出土しました。
礎石は、60cm~80cmX40cm~70cmの長方形の割石で、ほぼ中央に脚柱を受けるホゾ穴(直径30~35cm)がありました。また、直径1.4mの円形状に板材を縦に打ち込み、その中に礎石を据えている箇所もあり、御橋廊下の存在が確認されました。
御橋廊下は、藩主とお付きの人だけが二の丸と西の丸を行き来するために架けられたいた橋で、屋根を設け、外から見えないように部屋の廊下のような造りになっていました。斜めに架かる廊下橋としては、全国的にもめずらしい構造です。和歌山市では、和歌山城整備計画の一つとして、平成11年(1999)から御橋廊下復元工事のため史料調査や発掘調査を行い、堀底から礎石や瓦などが出土しました。これらの成果にもとづいて、御橋廊下が復元されました。
 長さ;約26.7m、幅;約2.95m、勾配;約11%、完成年月;平成18年(2006)3月
-案内板より



 西之丸(にしのまる)
この説明板の建っている一帯は、江戸時代、西之丸と呼ばれていた所です。西之丸は、紀州藩初代藩主徳川頼宣(1602~1671)の隠居所として築造されました。
江戸時代に描かれた「和歌山西之丸図」は西之丸に建っていた建物や庭(現在の名勝・紅葉渓庭園)などくわしく描いています。これにとると、御座之間(御上段・御次・御三之間)や御数奇屋、そして松の樹の横には能舞台などの施設があり、また、内堀の一部を利用した庭園には、地形の起伏を巧みに利用した懸造り構造の聴松閣や水月軒と名づけられた茶室が建っていたことがわかります。さらに、堀につき出た鳶魚閣や西之丸と二之丸を行き来するための御橋廊下が堀上に架けられていたことがわかります。
このように、西之丸は藩主の隠居所として築造されましたが、能や茶道など数奇を楽しみ、また自然風雅を楽しむ所でもありました。 -案内板より



 西之丸

    
  高灯籠(たかとうろう)
文政八年(1825)に沖行く船の安全を祈願するため紀州藩十代藩主徳川治宝が紀淡海峡を遠望できる水軒御用地内(現養翠園)に高灯籠一対を建立した。この高灯籠はそのうちの片方にあたる。その後明治二十二年(1889)海草郡湊村戸長内山常楠が徳川家に懇願し一対のうち片方の寄贈を受け自宅の裏山に私設灯台として設置し夜間航海の目印とした昭和十二年(1937)に和歌山港に灯台が新設され、いつしか忘れられ、長らく畑地に埋もれていたものを昭和62年2月にこの地に移築復元した。高さ4.15m、「文政八乙酉歳十二月吉辰」の銘がある。 -案内板より




西の丸からは、天守を見上げる事が出来ました。






                             つづく







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