近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
慶長五年、関ヶ原の戦いの後、和歌山城には、東軍に属した
浅野幸長が紀州藩主となり入城し、城の改修を行っています。
慶長十年(1605)頃、下見板張りの天守が建てられ、その後、土塁から
石垣に改修されました。

一中門跡(切込ハギ(左)と打込ハギ(右)が混在している石垣)
一中門跡の虎口を通り、二の丸へ。

伏虎像
江戸時代、和歌山城は別名「虎伏山竹垣城」と呼ばれている。これは、和歌山城の建つ山が、海上から見ると猛虎が伏している姿に似ているからである。現在「虎伏城」「伏虎城」などとも呼ばれている。
この像は、和歌山城の別名にちなんで昭和三十四年に建てられ、二代目にあたる。初代は郷土出身の女流作家有吉佐和子著「紀ノ川」にも登場するが、銅像であったため、戦時下の昭和十七年(一九四二)に拠出されている。 -案内板より


二の丸・表
徳川家が藩主の時代、本丸御殿が山上にあったが、不便で手狭なため、二の丸に殿様の居館や藩の政庁が置かれた。二の丸の機能は、藩の行事の場である表、殿様の公邸である中奥、殿様の私邸で、奥女中の生活の場である大奥の三つに分かれていた。 -案内板より

二の丸・表 (現在は公園となっており散歩コースになってました)


二之丸・大奥部分
二之丸は、紀州藩の政治を執り行う場であり、藩主の生活の場でもありました。そこには、多くの御殿がありました。御殿はその使われ方で表・中奥・大奥に分かれていました。表は藩主が謁見や儀式を行なうとともに、藩の政庁として諸役人が政務を執る場所でした。中奥は藩主の居間や家老や側近のものが詰める場所でした。大奥は側室や奥女中が生活する場所で、藩主のみしか入れませんでした。
この説明板の建っている付近一帯は、大奥のあった場所にあたります。文政8年(1825)に描かれた「和歌山二ノ丸大奥当時御有姿之図」(左の図)では局(奥女中の住居)や丹羽、大奥を囲む多門や櫓などが描かれています。また西之丸へ渡るための御橋廊下の入り口も描かれています。 -案内板より

二之丸・大奥部分(左奥・西堀に架かる御橋廊下)

裏坂上り口(ここからも天守に上がれます。が、今回は表坂から上がります。)


必死に石段を上り、城攻めをする小人(に見える木の根)
つづく
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