~西へ~(46)7日目② 日本100名城 和歌山城Ⅱ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。


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和歌山城は、天正13年(1585)に「若山」と呼ばれたこの地に秀吉が、弟・
秀長に築城を命じ、普請奉行に藤堂高虎、補佐役に羽田正親、横浜良慶を
任じ、1年で完成させました。この際に和歌山と改められました。


 岡中門跡



天正14年(1586)城代に据えた、桑山重晴は本丸を中心に手直しを行いました。


 表坂上り口 先に二の丸を見てから天守に上りました。



和歌山城の石垣は、時代によって石材や積み方の技術が違います。
一番古い石垣は、 天正13年(1585)頃に組まれた、岡公園や和歌浦方面で
採れる緑色片岩(紀州青石)を中心とした結晶片岩を用い、加工せず自然石
のまま積む 「野面(のづら)積み」 の石垣です。



    
  大手門と一の橋 (左)
和歌山城の内郭(二の丸より内側の地域)への正面の門、この門を出た所一帯が三の丸である。江戸時代の中頃まで「一之橋御門」と呼ばれていたが寛政八年(一七九六)に「大手門」と改称された。明治四二(一九〇九)に倒壊したが昭和五八年(一九八三)に古写真などにもとづき復元された。高麗門形式と呼ばれ間口十一メートルである。門に架かる「一の橋」も翌年復元された。徳川氏が入国する前の浅野氏の時期にはそれまでの城の大手であった岡口門をこの地に変更し「御門」や「北ノ橋」と呼んでいた。 -案内板より

 和歌山城史跡解説 「一の橋と大手門」(右)
大手門(追手門)とは城の内郭に入る正面の門です。和歌山城は天正13(1585)年に羽柴(豊臣)秀吉の命で秀長が築城し、家老の桑山重晴を城代として置きましたが、この時は岡口門が大手門でした。慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いの後に和歌山城主となった浅野幸長は、城の大規模な修築を行いました。浅野期の途中で内郭の北東部のこの位置に橋をかけ、門を設置し大手としたのです。紀州徳川家もひき続きここを大手としましたが、橋を「市之橋」、門は「市之橋御門」と呼んでいました。それが寛政8(1769)年から「大手門」と改称し、橋は「一の橋」に変えたのです。
大手門は高麗門形式の門で土塀や多門が連なり、西の石垣上には月見櫓が建っていて、一の橋には高欄擬宝珠が付けられていました。『紀伊国名所図会』を見ると、登城する重臣たちは橋の手前で駕籠や馬から降りなければならず、同道した重臣の家来は槍を立てかけて待合所で待機しています。
大手門は明治42(1909)年5月に倒壊しましたが、昭和57(1982)年3月に再建され、翌年3月には一の橋が架けかえられました。 -案内板より



 一の橋と大手門(復元)
浅野・徳川時代を通して和歌山城の表門であった一の橋南詰に建つ大手門。


 一の橋から見た「北堀」

      

大手門をくぐり、来た道を戻りました。


 打ち込ハギの石垣。その上は「二ノ丸表」


   
     一の橋の樟樹
和歌山城の一の橋から入ると、右手すぐに目につくクスノキの大木である。幹の周囲7メートル、樹高25メートルで、石垣の上に立ち、巨大な樹冠(じゅかん)を形成している。
太い枝を四方にのばし、約35メートルにもおよぶ城内最大の樹木である。推定樹齢は、本幹の太さから400〜500年といわれている。昭和20年の空襲で、このクスノキは損傷を受け、樹勢が著しく衰えたが、現在では完全に回復している。 -案内板より




                             つづく







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