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7日目、徳川御三家の一つ紀州藩紀州徳川家の居城である「和歌山城」へ。


不明門の内にある駐車場に停め、登城開始です。

不明門跡
不明門(あかずのもん)は元和年間の創建による単層入母屋造り本瓦葺であったが明治の廃藩とともにしだいに損傷し大正初年に取り壊された。
この城門は往昔(おうせき)から開扉(かいひ)せず万一、落城の場合は城内から岡山に抜け大智寺で陣を構え、不幸敗北のときは、船に乗って菩提所浜中長保寺にのがれる間道口であったと伝えられている。 -案内板より

不明門を一旦外に出て、南堀を見ながら進みます。

和歌山城は和歌山市の中心部に位置する標高48.9mの虎伏山に建造され、
北部を流れる紀の川を天然の堀とする。本丸の北側に二の丸が配され、
その外に大きく三の丸が配された、梯郭式平山城であります。


史跡 和歌山城
天正13年(1585)、羽柴(豊臣)秀吉が奇襲を平定し、弟の秀長に命じて岡山(虎伏山)の峰に創建したのが和歌山城。藤堂高虎らが普請奉行を勤め、高虎が手がけた最初の本格的な近世城郭といえる。秀長は大和郡山を居城としたため、桑山重晴が城代を勤めた。秀長家が途絶えると、桑山氏が城主となる。豊臣・桑山時代に山嶺部分や岡口の整備に取り組んだ。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの後、浅野幸長が37万6千石の領主となり、城の大規模な増築を行なった。連立式天守閣を建て、現在の本丸・二の丸・西の丸に屋敷を造営。大手を岡口門から一の橋の門に変え、本町通りを大手筋として城下町を整備した。
元和5年(1619)、徳川家康の十男・頼宣が55万5千石を拝領して入国し、御三家紀州藩が成立する。二の丸を拡張するため西内堀の一部を埋めたて、南の丸・砂の丸を内郭に取り入れ、ほぼ現在の和歌山城の姿となった。紀州徳川家は、「南海の鎮」として西日本を監視する役割を担い、八代将軍吉宗、十四代将軍家茂を輩出した。
明治4年(1871)の廃藩置県により、和歌山城は陸軍省の管轄となる。明治34年和歌山公園として一般に公開され、昭和6年(1931)に史跡に指定された。 -案内板より

和歌山城では唯一の重要文化財「岡口門」

岡口門前から見た「東堀」

岡口門 重要文化財・昭和三十二年文部省指定
岡口門は、和歌山城南東の虎口にあたり慶長五年(一六〇〇)浅野幸長公入国後、大手門(表門)として創建されたものであるが、元和五年(一六一九)徳川頼宣公入国と共に大手門を「一の橋口」に改められたため同七年、搦手門(裏門)として改修され現在に至っている。
楼門は切妻造りで、昔は向って右に御蔵、左に二重櫓があった。また北に接する土塀も当時のもので特に狭間(銃眼)は一枚石のくり抜きになっている珍しいものである。 -案内板より

岡口門をくぐり抜けると、来た者を威圧するが如く、高石垣が目の前に。
つづく
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