近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
ラーメン屋さんに教えて頂いた「日の岬(日ノ御埼)」へ。

日の岬
紀伊半島最西端に位置する標高200mの「日ノ御埼」一帯は、「日の岬パーク」として整備されています。ここから紀伊水道を見下ろす眺望はすばらしく、その夕陽は和歌山県の朝日・夕陽100選に選ばれています。 -日本風景街道 熊野Webより

海沿いの道を進み、つづら折りの道を上ると、


クヌッセン機関長の胸像
1957年(昭和32年)2月、風速20mという厳冬の嵐が吹き荒れる日の岬灯台の沖で、日本船が火災を起こしました。それを発見したデンマーク人ヨハネス・クヌッセン機関長(当時39歳)は、嵐の中を接近し日本人船員を救助しようとしました。しかし、弱りきっていた日本人船員は厳冬の海に落ちてしまいました。クヌッセン機関長は船員を救助しようと、すぐさま自ら海に飛び込みました。しかし翌日、残念ながら日高町の海岸に、打ち上げられた水死体となって発見されました。
このクヌッセン機関長の勇気をたたえ、日の岬の地に顕彰碑と胸像が建てられました。
-日本風景街道 熊野Webより


素晴らしい眺めですが、何となく嫌で合わないので、
早々に、来た道を戻りました。

山を下り、しばらく走ると、行きには気が付かなかった
神社が鎮座しておりましたので、寄ってみました。


南海 社号標
日御埼大神 石碑
第一


由来
本神社は、元、現在地の背後の宮ノ谷にあり、貞観元(859)年に現在地に遷座した。
その時姥目樫の苗木数百本を植へたという。
宮の谷には、今も宮の段とよばれる社跡があり、姥目樫の内現在に残れる2株は、県の文化財、天然記念物に指定されている。
御崎神社は、郡内で國の正史に記載された唯一の社であり、平安時代の初期の『三代実録』に「貞観十七(875)年己未援紀伊國正六位上三前従五位下」とある社で、その後平安後期の『紀伊國神名帳』では「正三位御崎神」となっている。
当時、熊野三山の一つである速玉神社が従五位上であった事でもその神階の高さがわかろう。
『紀伊続風土記』に「中世には社殿壮麗で神田二町二反」と記されている事とあわせ、当社の由緒の深さが伺われる。
天保7年には「正一位をきはめさせ給ひ」とある所からみると、幾毎も昇階されたようである。
そのため明治初年の社格決定にもあらわれ、日高郡では唯一の郷社に列せられた。
(明治に合祀した神社)
雷神社、和田雷谷に鎮座「イカヅチサン」といわれた。
八王子神社、御崎神社の東北100mに鎮座「ハットリサン」と呼ばれた。
入山若一王子社、入山王子跡に鎮座していた。
若一王子社、日高町小池大谷に鎮座していた。
里神社、氏社氏神として村内のすべての社を合祀した。
大海神社村内の蛭子社を合祀。 -和歌山県神社庁Webより

とても明るい境内


ご祭神は、
天照坐大神
事代主大神
猿田彦大神
雷大神
配祀
豊玉彦大神
天忍穂耳尊
天瓊瓊杵尊
速玉男神 で、ございます。


拝殿ないから見た本殿 本殿
つづく
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