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トルコ博物館で教えて頂いた「日米修好記念館・海金剛」にやってきました。

日米修好記念館・海金剛
日米修好記念館は、ペリー浦賀来航より62年前米商船2隻が寄港し貿易を申し込んだ事実を後生に残すため建設された。館内には商船の模型や歴史的文献、米国から送られた資料が展示されている。
海金剛は、鷹の巣台地の50m眼下に広がる中に、ピラミッド形や獅子頭のような奇岩が浮かぶ豪快な海岸美である。

日米修交記念館
1791年(寛政3年)、ペリーの黒船来航より62年も前のこと、レイディ・ワシントン号とグレイス号の2隻のアメリカ商船が大島に上陸しました。これが公文書に記録された初めての日米間の接触であるとされています。同館では、当時の様子を解説したジオラマや写真、船の模型などが展示されています。 -串本町観光協会Webより


米国文献
1791年、ボストン船籍の「レディ・ワシントン号」(ケンドリック船長)がニューヨーク船籍「グレイス号」(ダグラス船長)とともに中国からの帰路、ラッコの毛皮を交易しようと南日本の港に入港した。この時日本は初めて米国旗を見た。しかし住民は、毛皮の使用方法を知らなかったので商売にはならなかった。(マサチューセッツ海事史)
日本側文献
寛政3年3月26日夕、南海道紀伊国大嶋浦へ蛮船2隻漂着、右大嶋浦は口熊野の内也、..中略..小舟をおろし魁主は赤将束緋羅紗の由十四五人端船にて磯部乗廻り、小鳥銃にて鳶鳥を十五六打申候..中略..この後大嶋の水有之所にて水を取申候、水源より木綿桶にて端船へ水を招きやり候由、漁船を招き一怪書を贈り申候、本船主紅毛有之候得共、紅毛とは不相見へ、ムスコヒヤヲロシヤの類と相見へ、横文字を有之候、去年本船はアメリカ記し置書面と一様不相見へ候..(国立公文書館「外国通覧」)
寄港地は、現在の雷公の浜(ナルカミ)とされています。「水有之所にて..」とあるのは、雷公神社脇を流れる小川と思われます。この付近は、紀伊風土記などによると、古くから集落があったようで、当然の事ながら、当時も集落があり、この人々が最初の交流の当事者になります。
この時、漢文の書簡の他にオランダ語の書簡も手渡したようで、後の報告書に「蛮船二隻は亜蘭蛇、..」と誤解してしまい、近年米国の資料が見つかるまで、ペリーの浦賀来航が日本で最初と言われることとなります。 -串本町観光協会Webより
産経WEST記事
「ペリー来航62年前に米と交流、航海日誌見つかる 和歌山・串本町」

日米修交記念館屋上からの眺めです。

強風の中、時折強い雨が降ってきます。
早々に1階の展示室に戻ると職員の方が、「大丈夫でしたか?」と、
声をかけてくれました。そして、すぐ近くに「海金剛の展望台」が
ある事を教えてくれましたので、行ってみる事に。



21世紀に残したい日本の自然百選 海金剛
くしもと大橋を渡り、串本沖約1.8kmに浮かぶ大島(紀伊大島)へ。日米修交記念館(大島は日本初の黒船来航地)の横の駐車場に車を停め、案内板に従って日米修交記念館の前を歩いて「海金剛」を目指します。
ツバキやトベラなどの照葉樹の枝で頭上を覆われた遊歩道を歩くこと2~3分、左手の崖下に海金剛が見えてきます。
海金剛は「21世紀に残したい日本の自然百選」に選ばれていますが、それも納得。
この光景には何か圧倒的なものを感じます。スケールが大きいです。三角に尖った岩が印象的。
素晴らしい景色です。 三角の岩は「髪梳き岩」というそうです。 -み熊野ねっとより

雨も本降りになってきました。移動開始。
つづく
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