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エルトゥールル号遭難事件から95年後、日本国が「国」ではなく、
単なる「地名」である事を露呈した大事件が起こりました。

日本人216名を救ったトルコ航空機
イラン・イラク戦争が続いていた、1985年3月17日、イラクのサダム・フセインが「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶ飛行機を打ち落とす」ということを世界に向かって発信した。イランに住んでいた日本人は、慌ててテヘラン空港に向かったが、どの飛行機も満席で乗ることができなかった。世界各国は自国民の救出をするために救援機を出したが、日本政府はすばやい決定ができなかったため空港にいた日本人はパニックに陥った。
そこに2機のトルコ航空の飛行機が到着した。トルコ航空の飛行機は日本人216名全員を乗せて、トルコ(アンカラ経由イスタンブール)に向かって飛び立った。タイムリミットの、1時間15分前であった。なぜ、トルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも知らなかった。後に駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏は次のように語られた。「エルトゥールル号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。」
※この事は、あまり日本人に知られていません。
-串本町観光協会Webより


KUSHIMOTO 号 (左)
(ターキッシュエアラインズ A330型機)
ターキッシュ・エアラインズは、昭和60(1985)年のイランイラク戦争の最中、イランに取り残された邦人を救出する際に使用されたDC-10型機のデザインを復刻した機体を「KUSHIMOTO 号」と命名し、平成27(2015)年11月より就航を開始した。
機体には KUSHIMOTO の文字が入れられており、現在世界中を飛び回っている。
この模型はターキッシュ・エアラインズより寄贈されたもの。 -案内より
事件報道朝日新聞記事 (右)
新聞記事を読み、途中から怒りと情けなさでいっぱいになりました。
記事にはありませんが、当時「法律により自衛隊員を派遣する事が出来ない」とする(逃げる)政府は、JALに救出機の打診をしたが、労働組合からの反対で飛ばすことが出来なかったとも言われております。
やはり、日本は主権国家ではなく、地名ですね。
大英帝国の外務大臣パーマストン子爵は、「ドン・パシフィコ事件」の際、「古のローマ帝国ではいかなる辺境の地であってもローマ市民であることを名乗れば危害を加えられることはなかった。国家は一人の国民の権利を総力で守るものだ。そして現代のローマ帝国は我が大英帝国なのである」と言い、「たった一人の国民の権利を守るために国家の総力を上げるのが主権国家である」という現代でも生きている原則を確立しました。
30年以上経ち、やっと安倍政権で「自衛隊による救出」が法的には可能になりましたが、地域や条件が限定される。自衛隊の能力など、不十分と言う識者もおります。そして、「戦争法案」だとか訳の分からないレッテル張りをする日本国籍の「日本国は嫌いだが利権は好きな人々」が居る。本当に嫌になります。

エルトゥールル号遭難事件を扱った映画
「海難1890」田中光敏監督、小松江里子脚本
(2015年12月公開 日本・トルコ合作)
記念館をあとにして、慰霊碑に。


トルコ軍艦遭難慰霊碑
明治23年9月16日(1870年)、トルコ国皇帝特派使節団を乗せた軍艦エルトゥールル号が暴風雨のため、この慰霊碑眼下の海域に望む船甲羅岩礁で難破しました。
島民は献身的な救助活動を繰り広げ69人を救助しましたが、580余名の乗組員の尊い命がうばわれました。そして、引き揚げられた遺体をこの丘に埋葬しました。
翌、明治24年に和歌山県知事をはじめ、有志の義金により墓碑と慰霊碑が建立され併せて追悼祭が行われました。この碑は昭和4年の昭和天皇の樫野埼行幸を聞いたトルコ共和国ムスタファ・ケマル・アタテュルク初代大統領が新たに慰霊碑を建立することを決定、トルコ共和国の資金により昭和12年6月3日(1937年)に完成したものです。 -案内板より
突端の灯台を目指して進みます。


ムスタファ・ケマル・アタテュルク騎馬像
(1881~1938)
第一次世界大戦後、分割占領された祖国解放に立ち上がったムスタファ・ケマル・アタテュルクは、指導者としてこの戦争を勝利に導いたトルコ国民の偉大な英雄である。
アタテュルクは初代大統領として、あらゆる分野で改革を行い、祖国の近代化を成し遂げた建国の父として今尚、国民から深い尊敬を受けている。
この騎馬像は日本トルコ友好の礎を築いた軍艦エルトゥールル号の遭難120年に当たる年に更なる両国友好の発展を祈って駐日トルコ共和国大使館より串本町に寄贈されたものである。
本像の串本町への寄贈、設置にあたり支援をいただいた駐日トルコ共和国大使館、日本財団をはじめとする多くの方々に深甚の感謝を捧げるものである。
「・・・トルコ語の文章・・・」省略
2010年6月3日 串 本 町 -案内板より
つづく
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