~西へ~(34)4日目⑦ 移動・トルコ記念館Ⅰ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。


                     近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら




 雨などに浸食された流紋岩



大島が見えてきました。

 
 橋杭岩
串本から大島に向かい、約850mの列を成して大小40余りの岩柱がそそり立っています。その規則的な並び方が橋の杭に似ていることからこの名が付きました。海の浸食により岩の硬い部分だけが残り、あたかも橋の杭だけが立っているように見えるこの奇岩には、その昔、弘法大師と天邪鬼が一晩で橋を架ける賭をして、一夜にして立てたという伝説も伝わっています。吉野熊野国立公園地域にあり、国の名勝天然記念物に指定されています。 -案内板より



くしもと大橋を渡り、大島へ。



目指すは、トルコ軍艦遭難記念碑。



手前に建つ「トルコ記念館」に寄り道。

 トルコ記念館
エルトゥールル号の遭難の悲劇を機に犠牲者の慰霊を通じて串本町とトルコ国との交流が始まり、昭和39年11月ヤカケント町と姉妹縁組みを結び、平成6年にはメルシン市との姉妹都市提携の正式調印を交わしました。トルコ記念館は、トルコ国との友好の証として、今後一層、日ト親善の契りを深めると共に、国際的な友愛の精神を広く伝えることを目的として、建設されたものです。
館内には遭難したエルトゥールル号の模型や遺品、写真などが展示されており、遭難事故当時の様子を知ることができます。 -串本町観光協会Webより



 日本赤十字社「平時国際活動発祥の地」記念碑

     

 トルコ軍艦「エルトゥールル号」遭難
明治22年オスマン帝国皇帝アブデュル・ハミット二世は、オスマン・パシャ特派大使海軍少将を特派使節として日本に派遣した。巡洋艦「エルトゥールル号」(2,344トン)の乗員は、下士官及び水兵、その他合わせて650余名であった。翌23年6月7日横浜港に到着し熱狂的な歓迎を受けた。日本に滞在すること3ヶ月、日本帝国の国賓として扱われ、9月14日横浜港を出発し、イスタンブールへの帰路に就いた。
明治23年9月16日、エルトゥールル号は熊野灘に差しかかった。その日は朝から曇りがちで風が激しく、海もひどく荒れ模様であった。やがて、山のような怒濤に揉まれ揉まれた木造艦エルトゥールル号は、同日午後すでに進退の自由を失い、風濤に翻弄されてぐんぐん樫野埼灯台下の岩礁「船甲羅」へと押されていった。この船甲羅は数百年来、海の難所として知られ、艦長以下乗組員全員は死力を尽くして荒れ狂う魔人と闘ったが、かかる絶望的な状況下ではなす術もなく、同夜9時頃、船甲羅の岩礁に乗り上げ、同10時半頃には沈没してしまいました。
地元住民の献身的な救助活動にも、オスマン・パシャ特派大使海軍少将以下580余名が遭難、69名が救助された。かくして、トルコと旧大嶋村樫野(串本町)との友情と友好関係が現在まで続くこととなるのです。 -串本町観光協会Webより


    

座礁現場:岩礁「船甲羅」が見える小窓があります。



台風のうねりが入り、迫力満点で見る事が出来ました。

 

 救難活動
樫野埼灯台下に流れ着いた生存者の内、約10名が数十メートルの断崖を這い登って灯台にたどりついた。灯台守は応急手当を行なったが、お互い言葉が通じず、国際信号旗を使用して遭難したのがオスマン帝国海軍艦である事を知った。
通報を受けた大島村(現在の串本町)樫野の住民たちは、総出で救助と生存者の介抱に当たった。この時、台風により出漁できず、食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、住民は浴衣などの衣類、卵やサツマイモ、非常用のニワトリすら供出するなど、生存者たちの救護に努めた。この結果、樫野の寺、学校、灯台に収容された69名が救出され、生還することが出来た。その一方で残る587名は、死亡または行方不明となり、大惨事となった。遭難の翌朝、事件は樫野の区長から大島村長の沖 周(おき しゅう)に伝えられた。
沖村長は県を通じて大日本帝国政府に通報した。知らせを聞いた
明治天皇は、政府に対し、可能な限りの援助を行うよう指示した。
各新聞がニュースとして伝え、多くの義捐金・弔慰金も寄せられました。
-駐日土耳其國大使館 「エルトグルル號」より




このような外国船の遭難事故、日本人に寄る献身的な救助活動の記録は、
各地(伊豆戸田、宮城仙台など)に残されております。



エルトゥールルの残骸は、2007年(平成19年)から、トルコを中心とする数ヵ国
からなる水中考古学の調査団が調査を進めており、2008年(平成20年)には、
アメリカ合衆国海洋考古学研究所のトルコ人スタッフらが発掘調査を行い、
遺骨や弾丸など1000点以上の遺品を引き揚げました。

 
 菊花紋章入り磁器




                             つづく







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