~西へ~(19)3日目② 熊野本宮大社 旧社地 大斎原Ⅱ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
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神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。


                       近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら





熊野本宮大社 旧社地「大斎原」へきております。



樹齢百年の杉木立の参道を進みます。

   
  熊野坐神社旧社(大斎原)水害の絵図
熊野坐神社(現・熊野本宮大社)は、熊野川・岩田川・音無川、三つの川が合流するここ大斎原の中洲に鎮座していました。
熊野の神々は、中洲のイチイの巨木の梢に三体の月の姿で降臨したとも伝えられています。
一八八九年(明治二二年)、熊野川の大洪水によって建造物が倒壊しましたが、辛うじて倒壊を免れた上四社(三棟)を北西の丘陵に遷し、倒壊した中社・下社と摂末社の神々を二基の石祠それぞれに祀りました。 (-案内板より)
左図の

 
  (熊野本宮并諸末社絵図)
江戸時代に描かれた『熊野本宮并諸末社絵図』から、かつての一万坪を超える境内の概要がうかがえます。
一番大きな川が熊野川であり、左方より流込んでいるのが岩田川、大きく蛇行した後、街並みに並行して流れているのが音無川です。
森に囲まれた中洲中央には、横一列に並ぶ十二柱の神々を祀る社殿と神神楽所、その前には大きな礼殿がみえます。
礼殿の前の大釜は、現存する『伝源頼朝寄進鉄湯釜』(宝物殿展示)です。
これらを囲む形で門を設えた塀が廻り、その外には幾棟もの摂末社が立ち並び、宝蔵・文庫・神馬舎・能舞台など散在しています。
街並みから音無川を越えて境内へ入る箇所に太鼓橋(高橋)が架かっています。
江戸時代までは橋が無かった為に、参詣者は川を渡り足を濡らさなければ境内に入れませんでした。
これを「濡藁沓(ぬれわらくつ)の入堂」といい、全ての参詣者が自然に身を清める禊をしたわけです。
下流の三川合流地点には船着場がみえますが、ここが新宮へと向かう「川の参詣道」の出発地点でした。 -案内板より




石垣が組まれ、一段高くなっている社殿跡に上がります。



駐車場には多くの車が停まっていましたが、誰も居ません。

 
 旧社地 「大斎原」
ここは、大斎原と称して、熊野本宮大社の旧社地。明治二十二年夏、熊野川未曾有の大洪水にて、上、中、下各四社の内、上四社を除く中下社の八社殿二棟が非常なる災害を蒙り、明治二十四年、現在地(ここより西方700メートルの高台)に御遷座申し上げ、今日に至っております。中四社、下四社の御神霊は旧社地に、仮に石碑二殿を造営し、西方に、中、下各四社を、東方に、元境内摂末社(八咫烏神社、音無天神社、高倉下神社、海神社他)をお祀りしています。
中四社
第五殿   忍穂耳尊 
第六殿   瓊々杵尊
第七殿   彦火火出見尊
第八殿   鸕鷀葺不合尊
下四社
第九殿   軻遇突智命
第十殿   埴山姫命
第十一殿  彌都波能賣命
第十二殿  稚産靈命       -案内板より



 西方(向かって左)
中四社(第五殿~第八殿)
下四社(第九殿~第十二殿)
 東方(向かって右)
元境内摂末社を合祀




                             つづく







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