~西へ~(14)2日目⑥ 伊勢国総社 伊奈冨神社Ⅱ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。


                         近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら


伊勢国総社 伊奈冨神社にて、お参りを終え、御朱印を頂く際に、
重文の扁額についてお聞きすると「予約でないと見る事は出来ない」が、
「今日は宮司がおりますので、聞いてみます」と。
運よく拝見できました。
 

 「本日は特別なので必ず電話にて予約してください。」と
  おっしゃっていました。


 (画像は三重県教育委員会公式Webよりお借りしました。)
木造扁額(裏に文永十一年世尊寺世経朝の銘あり)
 概ね縦77cm、横53cm。檜材一木造。黒漆塗、文字は金で「正一位稲生大明神」、裏に「文永十一(1274)年庚戌二月廿三日庚午書之 正三位藤原朝臣経朝」と薬研彫で彫り込まれている。大宮は楷書、西宮は行書、三大神は草書と書体を変えて書かれている。風雨にさらされ、塗りも剥げ、木理を表している。
 藤原経朝(1215~76)は藤原行成の流れをくむ世尊寺流書道の名家として知られる。
 当神社はこの年に正一位を授けられ、亀山天皇から勅額を賜ったと伝える。 
-三重県教育委員会公式Webより


  
 (画像は三重県教育委員会公式Webよりお借りしました。)
   木造男神坐像
 総高52.4㎝、樟材、一木造。ほとんど丸彫りに近く彫成し、内刳りは無い。頭には幅広の幞頭冠(ぼくとうかん)、体には袍(ほう)と袴を着し、腰には石帯を巻いている。目を凝らして閉口し、顔は僅かに左斜に向け、右足を外にして結跏趺坐風に坐す。冠と膝上面の一部は乾漆を盛って整形している。
 50㎝あまりの小像とはみえぬほど堂々とした像で、木塊を思わせるような充実感がある。着衣に刻まれた幅広く鎬立った衣文表現は、いわゆる平安時代前期の一木彫成像に通じる。制作時期は平安時代前期、9世紀後半頃まで遡ると考えられる。社伝では、
「崇神天皇像」とされる。三重県を代表する神像である。 
-三重県教育委員会公式Webより


 
 伊奈富神社庭園  昭和57年4月27日指定
この庭は自然湧水で、池の中には島が七個あるので「七島の池」とも言われ、東西70m、南北15m、水深30~70cmに及んでいる。
島は西より二番目が最も大きく、橋がかけられ、小さなほこら跡がある。
室町時代の作とされる「勢州稲生村三社絵図」にも描かれている。
日本最古の「七島式庭園」として保存状態もよく、価値も高い。
  鈴鹿市教育委員会  -案内板より

伊奈冨神社庭園
 社伝によれば、平安時代のはじめ弘法大師が、池を造り大八島(おおやしま)をかたどって池中に島を数多く作ったと伝える。
 神社所有の室町時代作製の『勢州稲生村三社絵図』(せいしゅういのうむらさんしゃえず)に描かれる池や島の姿が現在のものに似ること、池辺や島のまわりに石の使用が見られないことから、古い形態を残した庭であると考えられる。
 この池庭は、七島池(ななしまいけ)と呼ばれ、社殿の南方低地にある。東西70m、南北15mで、中島の数は7個あり、西より2番目の島が最も大きく、南岸より橋を架けている。古図も島数は7個であるが、3番目が最も大きく、橋は見られない。古くからの池は、長い年月の間に池底に土砂が堆積し、2つの島が1つになる例が多く、この池庭もはじめに大八島をかたどったものが、七島に変化したものかもしれない。 
-三重県教育委員会公式Webより


 
 菩薩堂


       
          伊奈富神社 御朱印


本来は予約をしないとならない国の重文を拝見する事ができ、
色々なお話も聞く事ができた充実の参拝となりました。感謝です。








                             つづく







                当ブログの無断使用は禁止です。
                      メッセージにて確認をして下さい。その上で、 
                      文章引用・画像使用の場合は出典元URLを明記して下さい。