~西へ~(13)2日目⑤ 伊勢国総社 伊奈冨神社Ⅰ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。


                         近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら


伊勢国には、総社を称する神社が、一宮と同じように2社ございます。

    

うち一社「伊奈冨神社」に到着です。

       
 伊奈冨神社                   ピカピカの金属製鳥居
御祭神
 御祭神  保食神 大国道命     (大宮)
 相殿   豊宇賀能賣命 稚産霊神 (西宮)
       鳴雷光神 大山祇命   (三大神)
御神徳
 保食大神は一切の食物をつかさどられ、ことに私たちの命の根元たる稲の 生産豊穣を守護される神様であります。また、大神様は豊受大神(外宮)、 稲荷大神と同神で、その御神徳の及ぶところ広大無辺にして五穀豊穣、諸業繁栄 (商売繁盛)、家内安全、厄除開運、良縁成就、学業成就、病気平癒等の御霊験 あらたかな大神様であります。
御由緒
 当神社は社伝によれば、神代、東ケ岡(鈴鹿サーキット地内)に御神霊が出現 せられ、霊夢の神告により崇神天皇五年勅使参向のもと、「占木」の地にて 社殿造営の地を占われ、神路ケ岡に大宮、西宮、三大神を鎮座されました。 その後仲哀天皇の御子品屋別命の子孫(磯部氏)が代々当社の神主として仕え、 雄略天皇五年には数種の弊物が奉納され、主祭神保食神には「那江大国道命」の 御神号を賜わりました。降つて奈良時代天平年間、行基上人が別当寺の神宮寺を 建立され、更に平安時代天長年間には弘法大師が参籠の折、菩薩堂を建立して 三社の本地仏を祀り、七島池を一夜にして造られたと伝えられております。 貞観七(八六五)年四月、正五位上より従四位下に進階し(三代実録)、延喜式内社に列して おります。当時の神領は東は白子、西は国府、南は秋永、北は野町に及ぶ広大 な領域でありました。鎌倉時代中頃には正一位に進階し、文永十一(一二七四)年 三社に勅額を賜わりました。以後「正一位稲生大明神」として武門武将の 尊信厚く、ことに鎌倉将軍惟康親王は神田二百二十町歩、北畠国司は社領 千石御供田十二段を寄進せられ、また江戸時代元文年間には、紀伊徳川家より 造営料銀二十二貫を賜わり三社の大造営をなしております。 明治六年郷社、そして同三十七年県社に列せられ、戦後この制度は廃止され 現在に至っております。 (原文ママ)
 文化財
扁額          重要文化財
男神坐像        重要文化財
神像          県指定文化財
能面          県指定文化財
獅子頭         県文化財指定
三足壺         県指定文化財
棟札          県指定文化財
獅子舞         県指定無形文化財
七島池         県指定名勝
むらさきつつじ     県指定名勝
勢州稲生村三社絵図   市指定文化財 -参道案内板より


  
 
時折、鈴鹿サーキットを走る車の爆音が聞こえる参道を進み、
右に折れ進みます。

       


 拝殿


 拝殿ない

神職にお聞きしたところ、当社を総社と記した資料はないようですが、
中世以後、伊勢国の総社として機能していたようです。

   
 豊御崎神社(本社右手)
明治四十一年に境内社八幡宮(品陀和氣命)に境内や近隣の諸社を合祀
 ご祭神は、
猿田毘古神、土御祖神、彌都波能賣神、石長比賣命、金山毘古神、
建御雷男神、大日靈貴命、須佐之男神、五男三女神、大山祇命、
大鷦鷯命、菅原道眞、徳川頼宣、天之御中主神、大日靈神、
伊邪那美神、天忍穗耳命、天御蔭命、大年神、大山祇神、
宇迦之御魂神、天神地祇、菅原道眞、八百萬神、天兒屋根命、徳川頼信

(同じ神が複数含まれているのは、同じ祭神を祀る神社が合祀された為)

       





                             つづく







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