~西へ~(7)1日目⑦ 日本100名城 掛川城Ⅵ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。


                         近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら





掛川城 天守丸に上がってきました。


 天守丸
天正18年(1590)山内一豊が入城する以前は、本丸として使われていました。一豊によって城域が拡張されると、天守閣を配置する独立した曲輪になりました。-案内板より

  
 霧吹き井戸
永禄12年(1569)徳川家康は、今川氏真の立てこもる掛川城を攻めました。この時、井戸から立ち込めた霧が城をつつみ、家康軍の攻撃から城を守ったという伝説があります。
 霧吹き井戸について
1522年(490年前)に井戸が掘られました。(約1年かけて掘られている)
日本第3位の深さといわれます。(深さは45mあります)
今川氏真が立てこもる掛川城を徳川家康が攻めた時、井戸から立ち込めた霧が城を包み家康軍の攻撃から城を守ったという伝説があります。
 ※別名 雲霧城とも言われます。
この井戸は昭和35年位まで使われていた。
 (戦没者慰霊塔があって、それを護る庵守様の庵が天守丸にあり、その方が使っていた)
室町時代の有名な連歌師宗長(今川の家臣 1448~1532)が掛川城初期のを書き留めてあった。
1番 丸亀城(香川)   ・・・65m
2番 福知山城(京都)  ・・・50m
3番 掛川城(霧吹き井戸)・・・45m
4番 松山城(愛媛)   ・・・42m    -案内板より


       


 日本初の木造復元天守
この天守を再建するに際しては、山内一豊が掛川城の天守と同様の姿に建てさせたとされる高知城の天守を参考にしてそれに近い構造とし、壁は白漆喰で塗り固められている。

 
 掛川城天守閣
天正19年(1591)から慶長元年(1596)にかけ、山内一豊によって掛川城に初めて天守閣がつくられました。しかし、嘉永7年(1854)の大地震で倒壊し、幕末の混乱の中取り壊されました。
平成5年(1993)、城絵図や古記録を元に木造により復元され、140年ぶりに再建されました。
天守閣は、外観三層、内部四階から成ります。六間×五間(約12m×10m)の天守閣本体は、決して大きなものではありませんが、東西に張り出し部を設けたり、入口に付け櫓を設けたりして外観を大きく複雑に見せています。 -案内板より



 残念ながら、天守の石垣もコンクリートで固められたものでした。


 付櫓に入口が設けられています。



 掛川城天守閣の構造
天守
瓦葺、3層、内部4階
外部白漆喰塗籠、4階出入口引分け戸と廻縁・高欄は黒塗。
内部壁嵌板、4階は貼付壁、格天井
棟高石垣上端より53.4尺(16.18m)
付櫓
瓦葺、1層1階、外部白漆喰塗籠、内部壁嵌板、一部漆喰真壁
棟高石垣上端より18.75尺(5.68m)
総床面積
92.25坪(304.96m2)








                             つづく







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