北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら
躑躅ヶ崎館(武田氏館)跡を東側(大手口)から北側、西側と回りました。

北側無名曲輪の土塁


武田氏居館(躑躅ヶ崎館)跡
この地は武田氏三代(信虎・信玄・勝頼)の居館にして躑躅ヶ崎の西方にあるところから後世この別称を用いたと伝えられる。屋形一帯の濠塁・縄張りは左図の如き構成でほぼ現存し往時を偲ぶに足る。居館ちゅうしん地域については各説あるも一応左図の如き屋形配置が想像される。


西曲輪への石橋(みその橋)と西曲輪虎口

中曲輪虎口

西曲輪(左)中曲輪(右)を隔てる水堀

東側から見た「西曲輪への石橋(みその橋)」

武田神社表参道(神社建立の際に造られた虎口)に戻ってきました。


国指定史跡
武田氏館跡(躑躅ヶ崎館跡)
指定年月日 昭和十三年五月三十日
所在地 甲府市古府中町・大手三丁目・屋形三丁目
管理団体 甲府市
「武田氏館」は、「躑躅ヶ崎館」とも呼ばれ、武田信玄の父、信虎が、永正十六年(1519)に石和(いさわ)からこの地に、館を移したことから始まります。その後、信玄・勝頼と、武田家当主の館として使われました。そして武田家の滅びた後、文禄年間に館の南方に今の甲府城が作られるまでの約七十年にわたり、この館一帯は、領国の政治・経済と文化の中心地として発展しました。
館は、一辺が約二百メートルの正方形の主郭(現武田神社)を中心に、その回りのいくつかの副郭とによって構成された平城形式のものです。館の回りには、家臣の屋敷が建てられ、南方一帯には格子状に整備された道路に沿って、城下町が開けていました。この館と城下町は、戦国時代の大名の本拠として、第一級の規模と質を誇るものです。
平成元年三月 文化庁・山梨県教育委員会・甲府市教育委員会 -案内板より


風林火山の軍旗・孫子の旗(実物)が宝物館にて展示されている
ようなので、神社にお参り後に行ってみる事にしよう。
つづく
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