~北へ~(431)80日目③ 信玄公火葬塚(信玄公御墓所) | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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             北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら


護國神社から「信玄公火葬塚(信玄公御墓所)」に移動してきました。



   
甲斐国主 武田信玄公御墓所について (左)
 天正元年(1573)四月十に日、信州伊那郡駒場で五十三歳を一期とて、波瀾の生涯を閉じた英雄信玄公はその臨終に際し、三年間の秘喪を命じた。嫡子勝頼公は、これに従い、信玄公の遺骸を密かにして、三年後、二十四将の一人、土屋右衛門昌次の邸宅で、荼毘に附し、天正四年四月十六日、塩山、恵林寺に於いて、葬礼を行い、埋葬した。岩窪の墓所は、土屋氏の邸宅跡で、後世これを、魔縁塚と呼び、里人は恐れて近づかなかったと言う。それからおよそ二百年後の江戸時代安永八年(1779)甲府代官中井清太夫が発掘して、石棺を見つけその銘に「法性院機山信玄大居士・天正元年発四月十二日筦」とあったので幕府に届けて、信玄公の墓と定めた。この時、東花輪村、田中喜衛門、西花輪村、内藤正助、外五十二人の武田家の旧臣有志が大石碑を建て、壮麗な聖域とした。碑文は時の円光院住職、愚応の書である。現在地域住民はここを信玄公さんの墓と敬愛し、子供達と共に精神的憩いの場となっています。又地元老人クラブの人々が、毎月一回清掃奉仕を行い自治会では、年中行事として、四月十に日の命日に円光院並びに近隣の寺院の協力と併せて、信玄公さんの祭りとして墓前法要を勤め、ありし日の国主を偲んでおります。  
  昭和五十六年九月吉日   岩窪町自治会・老人クラブ建之
-案内板より

 信玄公の墓碑陰銘 (右)
公ノ姓ハ源、名ハ晴信、武田ハ其ノ氏ナリ、頃壮(ワカキコロ)髪ヲ下(オロ)シテ機山信玄ト称ス。天正元年癸酉四月十二日薨(コウ)ズ、権(カ)リニ葬ルコト三年、乙亥四月此ノ地ニ火浴シ、以テ分骨スト云ウ。今茲ニ己亥春重民(ジューミン)某等(ソレガシラ)力ヲ勠(アワ)セテ新ニ碑ヲ造ル。蓋(ケダ)シ羊祐(ヨーユウ)ノ堕涙(ダルイ)碑ニ倣(ナラ)イ聊(イササ)カ景仰(ケイゴウ)ノ誠ヲ伸(ノブ)ルナリ。一日地ヲ掘リ灰ト骨トヲ得タリ。
 然レバ則チ其ノ衣薪(エシン)ノ迹(アト)明ラカナリ。古碑ニ曰ク、三年哀(カナシミ)ヲ発セザルハ敵国アルガ為ナリト。其ノ文完(マツタ)カラズト雖モ今又壙中(コウチュウ)ニ蔵ス。請ウ後人之ヲ徴セヨ。
  安永八年龍集(年)・屠維(己)・大エン獻(亥)・孟夏(四月)・上浣日(上旬)
    住、瑞嵓山圓光禅院嗣祖沙門獃愚應謹誌 -案内板より


 

定期的に手入れをされているようで綺麗に整備されています。

   

今でも地元の方に敬愛されているのが窺えます。

        
    法性院大僧正機山信玄之墓





                               つづく







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