~北へ~(414)77日目① 加賀国総社 石部神社 | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

 
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77日目、本日最初に向かったのは、石川県小松市古府町に鎮座する
加賀国総社 石部神社であります。

          

当社は、加賀国一宮とも考えられていた時期があります。

         
  石部神社由緒
主祭神 櫛日方別命(くしひかたわけのみこと)
 例祭日 三月十七日・九月十七日
 今を去る千百六十余年前の弘仁十四年(八二三) 三月越前国から分かれて加賀国ができた。そ の府庁のあった所がこの近くである。その南 に当社がすでに祀られていたと伝えられる。 府の南にあったので府南社とも称え、この地 を府南山と号した。当時国司は、毎月一日に 加賀の主な神社八社を廻り参詣した。やがて 当社を加賀国総社とし、ここを参拝すること によって八社を廻るのに代えた。当時の当社 の隆盛と規模の雄大さは、加賀国第一であっ たといわれている。
 延喜年間(九〇四)に「式内社」に列せられ、 神名帳に登録されている。安元二年(一一七六)に 国司と白山衆徒との争乱による涌泉寺事件に 関係して、神社は大きな被害をうけた。その 後往年の盛況はなく、応永二十八年(一四二一)の 足利義持判書に「南禅寺領加賀国府南社御供 田云々」とある如く、南禅寺と所領争いもあ った。
 慶長五年(一六〇〇)小松城主丹羽長重は、社殿 を修理し宝物を納められた。加賀三代藩主前 田利常は厚く当社を尊信し、歴代藩主もまた 厚く敬い奉幣した。明治五年八月、郷社に列 せられた。明治三十九年十二月神饌幣帛料供 進社に指定された。現拝殿は昭和六年三月、 神殿は昭和三十七年三月に造営された。
 幾年月の間に栄枯盛衰はくり返された。今 は盛時の面影はないが、付近に残る数々の遺 跡や田地名に、往年の状況を偲ぶことができ る。どんなに変ろうと常に当社に敬神の誠を 捧げ、お仕えしてきたのはこの国府(こう)の人 達である。神もまたとこしえに私達をお守り になっている。-案内板より


     

祭神は櫛日方別命でありますが「加賀國式内等舊記」には大物主神と
記されており、加賀国の国府の南に位置したところから「府南社」との
別名もあり、近世には船見山王明神と呼ばれておりました。



「船見」は「府南」、「山王」は大物主神が祭神と考えられたことによります。



    

逆光で旨く撮れないから狛犬に近づくと蜂の巣になってました。恐。

 
 社号額                    本殿


総社という事で、境内社や祠を探したが、見当たりませんでした。





                               つづく







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