北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら
史蹟春日山城趾
頚城平野の西北に位置する春日山上にあって、上杉輝虎(謙信)の居城地
であった。山上に本丸を構え、二の丸、三の丸をその下に配し、土塁濠を
重ねて比隣に勢威を示した。
頂上は蜂ヶ峰と称し眺望に富み附近の属城を充分に監視することが出来た。
戦国期最強の武将 上杉謙信公の居城 春日山城の本丸に到着しました。


本丸
南隣の天守台とともに春日山城の「お天上」と呼ばれた所。
標高180メートルの本丸からは、かつての越後府中(直江津)と周辺の山々の支城跡や日本海が一望できる。
関川右岸に広がる、林に囲まれた村落が点在する風景は、慶長2年(1597年)の「越後国絵図」に描かれた中世の景観とほとんど変わらない。
-案内板より


秩父宮雍仁親王の手植えの松
本丸から北側に一段下りた所には護摩堂阯がありました。


護摩堂
謙信公が出陣前に毘沙門堂に籠った事はよく知られているが、護摩を焚いて戦勝や息災を祈祷したのがこの護摩堂である。
護摩の修法(しゅほう)は、毘沙門天の信仰とともに謙信公が真言密教を深く信仰していたことを如実に物語っている。
-案内板より
その先には、

諏訪堂阯・毘沙門堂阯

本丸側から見た護摩堂阯・諏訪堂阯・毘沙門堂阯
更に一段下ると不識院阯。

ここに新しい(昭和期に再建)毘沙門堂が建っております。


この御堂には謙信公の信仰された毘沙門天の尊像(青銅製、約50cm)が安置されている。
尊像は景勝公のとき会津を経て米沢に移りましたが、嘉永2年の火災で被害を受けた。
昭和3年に第15代上杉憲章氏が東京美術学校に修理を依頼し高村光雲先生が1年余を費やして修理した。その際 御分身が作られ、尊像の欠け損じたのをその体内に収め、同5年3月に完成し、その後、当市(当時春日村)に寄進され、この祠堂に奉安した。
-案内板より

毘沙門天は悪魔を降ろす神であり、謙信公は自らの軍を降魔の軍とみなし、「毘」の旗を陣頭にかざし、また事あるときはこの堂前で諸将に誓を立てさせた。
毘沙門天は四天王のうち、北方を守る多聞天でもある。
この尊像は多聞天の姿であり、城の北方を守る意気をもっていたものと思われる。
-案内板より

つづく
当ブログの無断使用は禁止です。
メッセージにて確認をして下さい。その上で、
文章引用・画像使用の場合は出典元URLを明記して下さい。