~北へ~(397)75日目② 春日山城Ⅰ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

 
             北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら


謙信公をお祀りする春日山神社に御挨拶をし、いよいよ登城開始です。

         

こんなルートで歩きました。




     

  
 春日山城(左)               
上杉謙信公の居城として知られる春日山城は、今から約600年程前の南北朝時代に築かれたと言われており、越後府中(直江津)を守る拠点であった。
 その後、謙信公の父為景・謙信・景勝の三代にわたり普請に努め、現在見られるような大城郭になったと考えられている。
 春日山城の特徴は、標高180メートルの本丸跡から山裾まで連続する屋敷跡群と、裾野に巡らされた総延長1,200メートルの総構え(通称監物堀)である。
 関東管領として、関東・北陸に覇を唱えた戦国大名の居城にふさわしい大城郭といえる。

 謙信公像
上越市内を見下ろす謙信公の銅像は、昭和44年に滝川美一によって制作された。
像高305センチメートル、重量約800キログラム
-案内板より


 三の丸(右)
謙信公の養子「三郎景虎屋敷跡」や「米蔵跡」などを総称して「三の丸屋敷」と呼ぶ。それぞれの屋敷は段違いに造られて区分され、「景虎屋敷跡」の東端に入口が設けられ今も道が残っている。
 三郎景虎公は、小田原の北条氏康の七男であり上杉氏と北条氏の同盟締結の際に謙信公の養子となった武将。謙信公が自らの名を与えるなど破格の待遇を受けていたが、謙信公の死後跡目を争った「御館の乱」で敗れ悲運の死を遂げた。「米蔵跡」の名が示すように、城機能の中核施設が置かれた場所として考えられており、春日山城跡で最も良好な状態で残っている土塁は、この三の丸の防衛の役割を果たしていた。当時はこのような土塁が各郭に築かれ、春日山城の守備をいっそう強固にしていたと想像される。
-案内板より




尾根に向かって竪堀が見て取れます。



   

   
 甘粕近江守宅址          川中島の甘粕近江守(歌川国芳画)
川中島の合戦などで活躍した甘粕(近江守)景持。
柿崎景家と並ぶ武勇を誇る甘粕景持について、『甲陽軍鑑』では
「謙信秘蔵の侍大将のうち、甘粕近江守はかしら也」、
『松隣夜話』では「勇気知謀兼備せる侍大将」と称賛される武将。


 米蔵阯


 竪堀(上部)









                               つづく








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