~北へ~(352)52日目⑤ 望楼・ 慰霊碑 | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

 
             北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら


大日本帝國海軍の望楼を見る為に高台に上がりました。


 大岬旧海軍望楼



 明治38年、日露戦争がはじまると望楼の役割も一段と重要性を増し、海軍無線電信所が併置、樺太上陸特別派遣軍の第13師団海上輸送護衛の通信連絡に従事し、日本海海戦の折にはバルチック艦隊通過の可能性があることから監視に重大な責任が課せられていた。当時世界最強といわれたバルチック艦隊は結局、東支那海を通過したため宗谷海峡を通ることはなかったが、日本海海戦に破れて敗走して来たロシア軍艦「ノーウイック号」と日本海軍巡洋艦「対馬」「千歳」が宗谷沖で戦った時、大いにその真価を発揮した。
-稚内市Webより


    

 日露戦争の終結に伴い望楼の使命は終わりましたが、その後も、無線通信基地や、太平洋戦争では対潜水艦監視基地として使用されました。
-稚内観光情報Webより



 稚内市指定文化財第十九号
  史跡 大岬旧海軍望楼
 明治八年、樺太千島交換条約が成立し、樺太全島はロシア領になりましたが、宗谷海峡における日露の緊張は高まるばかりでした。当時の日本海軍はこうした情勢下で、明治三十五年(一九〇二)宗谷岬に望楼を建設しました。この望楼は、宗谷海峡を一望のもとに見渡せる位置にあり、その形も船のブリッジを形づくる異色のもので、石材をコンクリートで固め、いかにも国境の備えにふさわしい監視所でした。
 建設以来、風雪に耐えて当時のおもかげを今につたえる貴重な文化財です。
大切にしましょう。        稚内市
-説明板より


 宗谷海域海軍戦没者慰霊碑
この碑は宗谷周辺の海域を守り殉職した旧日本海軍軍人の鎮魂にために建てられたものです。
特に、終戦直前の昭和20年7月、米潜水艦の魚雷攻撃を受けた稚泊航路連絡船「宗谷丸」を守るため、身代わりとなって爆沈した望楼防備隊所属の「第112号海防艦」の乗組員152名の霊を慰めるため、旧防備隊々員から寄せられた浄財250万円で、昭和55年9月に建立されたものです。
-案内板より



 平和の碑
太平洋戦争中の昭和18年10月、宗谷岬沖で日本海軍によって撃沈されたアメリカ海軍潜水艦「ワフー号」の乗組員80名と、ワフー号によって日本海で沈められた日本商船5隻の犠牲者696名を慰霊するため、戦後50年の年にあたる平成7年9月に日米合同で建立されました。
 日米合同で慰霊碑を建立するのは、わが国では初めてのことであり、平和を願う両国民の気持ちが込められています。
-案内板より

  
 平和の碑 碑文
 1943年10月11日、宗谷海峡において5時間に及ぶ日本海軍とアメリカ合衆国海軍との間で悲痛な戦いが繰り広げられた。
 この場所により、北東12マイルの宗谷海峡にアメリカ潜水艦ワフーSS238号乗組員80名のアメリカ人が眠っている。また、ワフー号の攻撃による多くの日本人の犠牲者が日本海に眠っている。
 この碑は、日本側の人々とワフー号に眠る乗員の家族とによって設立されたものである。
 かつての敵は、今日、兄弟として出会い、両国の平和が尽きることのないよう、また、我々が今あたためている友情が決して再び壊れることのないよう、献身したい









                              つづく





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