北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら
走古丹半島を後にし国道に戻ると雨が強く降ってきました。
そんな中、銅像を発見。


「叫びの像」というらしい。の見てる先は、

条件が良ければ、我が国の領土・国後島が見える様です。

北方展望塔、叫びの像(別海町)
北方展望塔は、別海町内のオホーツク海に面した海岸線に建つ展望施設です。総理府(当時)と北海道は、昭和53年に「北方領土を目で見る運動」を提唱し、国民の一人でも多くが北方領土問題に直面する現地に行って北方領土を目にしてもらうよう関係機関・各団体と連携してこの運動を進めることとなりました。
これを受け、北方領土対策協会により昭和57年、国庫補助により国後島の雄大な姿を目の前に見ることができる別海町尾岱沼の「白鳥台」に、北方展望塔が建設されました。
展望塔からは、野付半島やオホーツク海に浮かぶ北方領土の国後島が一望できます。また、同施設の敷地内には、「叫びの像」が建立されております。これは、山形市の実業家故鈴木傳六氏が北方領土返還要求運動のために昭和57年建立し寄贈されたもので、「島を返せ」と叫び続ける国民の総意を、老女とその孫に託した様子が力強く表現されております。
また、野付半島から国後島までの距離は16kmであり、この距離にちなみ、「四島」に見立てた四本の柱と、叫びの像の間が16mになっています。
-別海町役場、千島歯舞諸島居住者連盟別海町支部運営Web北方四島より
しつこいですが大切な事なので、
「北方領土」は日本の領土です。
北方四島だけでなく、他の20島と南樺太も忘れてはなりません。
占守島 しゅむしゅとう
阿頼度島 あらいどとう
幌筵島 ぱらむしるとう
志林規島 しりんきとう
磨勘留島 まかんるとう
音禰古丹 おねこたんとう
春牟古丹島 はりむこたんとう
越渇磨島 えかるまとう
知林古丹島 ちりんこたんとう
捨子古丹島 しゃすこたんとう
牟知列岩 むしるれつがん
雷公計島 らいこけとう
松輪島 まつあとう
羅処和島 らすつあとう
宇志知島 うししるとう
計吐夷島 けといとう
新知島 しむしるとう
武魯頓島 ぶろとんとう
智理保以島 ちぇるぽいとう
得撫島 うるっぷとう
択捉島 えとろふとう
国後島 くなしりとう
色丹島 しこたんとう
歯舞群島 はぼまいぐんとう
(南)樺太 からふと
北方展望塔の地図にまた興味をそそる半島を見つけたので、行ってみる事に。

国道を右に折れ、道道950号(フラワーロード)に入ります。

快適な直線道路を走っていると視界に「會」の旗が。

車を停め、見に戻りました。


北辺防衛会津藩士顕彰碑
幕末 北辺の防衛急を告げ内も又新時代へ胎動を始め内外は激動を続ける
この頃当地方は会津藩警備の地となり 万延元年藩兵を派遣し 文久二年ホニコイに陣屋を造営して新領地代官以下二百余名が守備につく異郷の厳しい気候風土は耐え難く慶応三年まで多くの藩士がこの地にねむる
藩命とはいえ えぞ地守備に挺身し尊い命を捧げた士こそ 義勇に奉じ 国難を救った誉れある武人である
平和を受けついだ吾等 ここに先人の功を讃える
陸上自衛隊の協力を得
昭和四十三年十月建立 標津町
-碑文より

碑の隣には墓石があり、稲村兼久とその孫、佐藤某の名が刻まれ
「文久三年」の年号も刻まれています。
手を合わせ、先に進みます。
つづく