~北へ~(227)29日目⑫ めし・四稜郭 | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。


             北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら



昼に食したラーメンに今一つ納得が出来なかったので、五稜郭のお店の
方に聞き込みし、評判のいい店を教えてもらいました。

  
  函館麺や 一文字 函館本店(湯の川温泉の川沿い)

麺は先ほど食した店と同様に黄色い中細縮れ。鶏と昆布(かな)出汁の
熱いスープは、変わった香りがすると思い、メニューをよく見ると
「エビ油」が使われているようです。
炭香るチャーシューは固く、メンマも筋っぽい。トッピングの味玉も
味が濃い。このラーメンも前の店と同じで、不味くはないが。。。


 塩ラーメン+味玉


函館ラーメンは「塩」ですよね?
残念ながら「唸る塩ラーメン」には当たりませんでした。

陽もかなり傾いてきたので、急ぎ次なる地へ向かいます。

五稜郭タワーに上らなくてもここには行かねば。

 
 史跡 四稜郭
           昭和9年1月22日史跡指定
明治2年(1869)春、五稜郭にたてこもる旧幕府脱走軍は新政府軍の攻撃に備えて各地に防御陣地を築いたが、五稜郭の背後を固めるため、その北方約3キロの緩斜面台地にも洋式の台場を急造した。
これが四稜郭である。
四稜郭は、蝶が羽を広げたような形の稜堡で、周囲に土塁と空壕をめぐらし、郭内(面積約2,300平方メートル)には、四隅に砲座を設けたが、建物は造らなかった。
なお、地元の言い伝えによると、旧幕府脱走軍は士卒約200名と付近の村民(赤川・神山・鍛冶村)約100名を動員して、昼夜兼行で数日のうちにこの四稜郭を完成させたといわれている。
明治2年5月11日、新政府軍は箱館総攻撃を開始した。
同日未明、新政府軍の岡山藩・徳山藩の藩兵は赤川村を出発し、四稜郭の攻撃を開始した。松岡四郎次郎率いる旧幕府脱走軍は四稜郭の防御に努めたが、新政府軍には福山藩兵も加わり、さらに長州藩兵が四稜郭と五稜郭の間に位置する権現台場を占領したため、退路を断たれることを恐れた旧幕府脱走軍は五稜郭へと敗走した。
5月18日には、五稜郭が開城され、榎本武揚以下が降伏して箱館戦争は終わった。
   函館市  文部省     -案内板より



 史跡四稜郭の保存について
旧幕府脱走軍の降伏という形で箱館戦争が終結した後、四稜郭はかなり荒廃がすすんでいました。しかし、昭和9年に史跡に指定されて以来、地元の人たちをはじめ、市民の手厚い保護を受けて、今日までその原形を保つことができました。
 函館市では、この史跡保存に万全を期すため、昭和44年度から47年度にかけて、国・道の補助を受け、土塁の修復等の環境整備工事を実施したところですが、さらに平成2年度において、あずまや等の施設を設置し、この史跡を歴史学習や市民の憩いの場として、広く利用していただけるよう整備いたしました。 
この貴重な国民的財産である史跡を私たちの手で保存し、後世に伝え残していくために、次のことを守ってください。
一、土塁等に登らないこと
一、木の枝を折ったり、芝生をいためたりしないこと
一、自転車、バイク、自動車等を乗り入れないこと
一、火気を使用しないこと
一、ゴミは捨てないで持ち帰ること
               函館市教育委員会 -案内板より




四稜郭は、五稜郭を援護する支城として築かれ、同時に東照宮も守護
出来る北東約3キロメートル離れた丘陵上にあります。



幅2.7m深さ0.9mの空堀に囲まれ、規模は東西約100m、南北約70m、幅5.4m、
高さ3mの土塁からなる堡塁です。


 虎口


 郭ないから見た虎口


 西側から見た虎口(土塁左手が郭ない)


 稜堡



4ヶ所築かれている稜堡には突角の砲台に大砲を昇降させるための
スロープが造られています。



突貫工事で造られたという四稜郭は、堀、土塁ともに五稜郭と
比べると小規模です。



修復とはいえ「堡塁」を実際に目にし、歩くことは中々できないので
この四稜郭は、貴重な史跡です。




                              つづく