~北へ~(218)29日目③ 蝦夷地上陸・碧血碑 | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
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神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。


             北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら





ベテランキャンカーの人と話しているといつの間にか蝦夷地函館山が間近に。



函館山といえば新選組最後の陣「弁天台場」が麓にある。



そんな事を考えていると下船準備の案内放送があり、再び船のお腹へ。



上陸しました。



函館に来たからには、先ずここに行かなくては。



「碧血碑」です。



真っ白いツツジの中にひっそりと建っていました。
(画像左隅の小さな木が会津の山に咲くベニサラサドウダン(紅更紗灯台) )


 碧血碑
 函館戦争で戦死した土方歳三や中島三郎助父子をはじめ、北関東から東北各地での旧幕府脱走軍戦死者の霊を弔っているのが、この碧血碑である。碑石は、7回忌にあたる明治8年、大鳥圭介や榎本武揚らの協賛を得て、東京から船で運ばれたもので、碑の題字は、戦争当時陸軍奉行であった大鳥圭介の書といわれている。
 碑の台座裏には、碑建立の由来を示す16文字の漢字が刻まれているが、その表現からは、旧幕府脱走軍の霊を公然と弔うには支障があったことが推測される。
 なお、碧血とは「義に殉じて流した武人の血は3年たつと碧色になる」という、中国の故事によるものである。-説明板より


     
                    「明治辰巳実有此事 立石山上叺表歔志」
                         明治八年五月

碧血碑の裏側には「明治辰巳実有此事 立石山上叺表歔志」との文字が刻まれている。これは、「明治辰巳、実に此事有り、石を山上に立てて以て厥の志を表す」と読み、「明治2年、此の事は実際にありました。山上に石を建てて悲しみの気持ちを表します」という意味である。建立当時でも戊辰戦争の内容に触れることがはばかられていたことが推測される表現となっている。-Wikipediaより

             
               副碑

   
   柳川熊吉翁之寿碑
  柳川熊吉は、安政3年に江戸から来て請負業を営み、五稜郭築城工事の際には、労働者の供給に貢献した。
 明治2年、函館戦争が終結すると、敗れた旧幕府脱走軍の遺体は、「賊軍の慰霊を行ってはならない」との命令で、市中に放置されたままであった。新政府軍のこの処置に義憤を感じた熊吉は、実行寺の僧と一緒に遺体を集め同寺に葬ったが、その意気に感じた新政府軍の計らいで、熊吉は断罪を逃れた。
 明治4年、熊吉は函館山山腹に土地を購入して遺体を改葬し、同8年、旧幕府脱走軍の戦死者を慰霊する「碧血碑」を建てた。大正2年、熊吉88歳の米寿に際し、有志らはその義挙を伝えるため、ここに寿碑を建てた。-説明版より




久しぶりに両碑に手を合わせる事が出来ました。


*2カ所の現地説明板中に「旧幕府脱走軍」とありますが間違いです。
正確には「蝦夷共和国軍」または「旧徳川幕府軍」です。




                              つづく