北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら
14日目出発。
本日は「朝ラー」をやっている店からです。

遠くの山に残り雪を見て、北へ向かっている事を実感。

まこと食堂(喜多方市役所の裏の方、川の横)
凄い久しぶりの来店です。
あれ?代替わりした?奥様はおりましたが。
んん?豚の雑味が。麺は相変わらずですが。
えっ、値上げした?ちょっとお高くなりましたが。
まっ、朝ラーでゴキゲンではありますが。。。
日曜日という事もあり、食べ終わる頃には「待ち」になってました。

チャーシューメン
さぁ、会津に戻り「鶴ヶ城(会津若松城)」に登城です。
拙者の先祖は武士ではないですが徳川・会津の御殿様の為に
働いていたと聞いてますので親しみがあります。


松平保定殿 御手植えの松
現在、三の丸は駐車場や博物館などになってます。


会津万葉歌碑
会津嶺(あひづね)の国をさ遠み逢はなはば偲ひにせもと紐結ばさね
(巻14・三四二六)

山本(新島)八重の像
新島八重(一八四五年~一九三二年)
会津藩砲術師範・山本家に生まれ、戊辰戦争では銃を手に鶴ヶ城に籠り、奮戦した。
明治に入って京都に移住し、同志社の創立者となる新島襄と結婚。後に日本赤十字社社員となり、日清、日露戦争では篤志看護婦として傷病兵を看護した。
初代京都府議会議長を務めた山本覚馬は兄-案内板より

明日の夜は 何国の誰か ながむらん
なれし御城に 残す月影
明治元年(一八六八)九月二十二日巳の刻(午前十時頃)、会津藩は「降伏」の旗を掲げ、壮絶な戦いを繰り広げた籠城戦に終止符が打たれました。山本(新島)八重は、新政府軍が鶴ヶ城に入城する様子を「切歯扼腕」(せっしやくわん・歯ぎしりし腕を強く握るほど無念な様子)の思いで見守ったと晩年(八十四歳)に語っています。
降伏の儀式が終わり夜が更けると、八重は三ノ丸の一角で一首の和歌を詠みました。このとき「月が物凄いように輝いていた」とのちに回想しています。
-八重が物心ついたときから日々見上げてきたお城、籠城戦では城を枕に殉死する覚悟までしたこの鶴ヶ城が、明日からどこの国の誰の手に渡ってしまうのか-
煌々と輝く月明かりの下で詠まれた和歌に、八重の無念さが込められています。-案内板より
喜多方ラーメンと同様にこちらも久しぶりに訪れました。

家紋は、歴代藩主です。
蘆名氏→伊達氏→蒲生氏→上杉氏→蒲生氏→加藤氏(伊予の国・松山城藩主)→保科氏(二代将軍 秀忠公の庶子)→松平氏


三の丸と二の丸を隔てる堀と門跡の石垣


現存する石段 戊辰戦争時の弾痕跡?

二の丸跡の井戸

現在の二の丸(テニスコートになってます)


内堀と廊下橋

有事の際に落として二の丸と本丸を遮断する目的の橋。
葦名時代には屋根のついた廊下造りだったので廊下橋と呼ばれてます。

廊下橋から見た内堀の見事な石垣

橋を渡った正面の石垣
枡形虎口を通り、本丸へ。

つづく