乃木公園内に鎮座します乃木神社に参拝し、公園内の
乃木希典 別邸 那須野旧宅に向かいました。

「陸士林」と呼ばれる杉林の遊歩道を抜けていきます。


「陸士林」の由来
この道を挟んだ一帯の「林」を、「陸士林」と言います。
「陸士林」の「陸士」とは、「陸軍士官学校」の略称です。「陸士林」とは、つまり陸士出身者によって献木された林のことです。
「陸士」は、遠く明治元年(1868年)京都に「兵学校」として、創設されたのが始まりで、後に数次の変遷を経て、昭和二十年(1945年)に大東亜戦争が終了するまで約八十年間にわたり、日本陸軍の正規将校の養成機関でした。
明治十年卒業の第一期士官生徒から少尉候補者・将校学生を含め、昭和二十年在校の第六十一期生に至る同校の同窓生は、六万四千有余名を数えます。
陸士の教育は、忠君愛国の精神の修得を第一義として行なわれ、卒業生たちはわが国興隆の近代史に多大の足跡を残しております。
乃木将軍のご遺徳を敬慕して止まないこの陸士出身の後輩が有志相図り、各期ごとに乃木神社に献木したこの「陸士林」の樹木一本一本には乃木大将の精神を奉じ、国家の安泰をひたすら祈念しつつ身命を賭した幾多の陸軍将校の霊魂が宿っています。
以上のとおり、「陸士林」の由来について概説いたしましたが、この「陸士林」が幾久しく茂り続くかぎり、乃木大将の御神霊をお守り申し上げながら御神霊と共に、わが国の繁栄を見守っておられることを、皆様には忘れないで欲しいのです。
平成十年十二月吉日 建立 献木期並びに有志一同
献木した各期と植樹年月日は、次のとおりです。
士官候補生期 士官候補生期
三六期 大正十二年 四月十六日 五十期 昭和十二年 四月二八日
三七期 大正十三年 四月二八日 五一期 平成十一年 四月 吉日
三八期 大正十四年 四月二八日 五二期 昭和五七年 四月 吉日
三九期 大正十五年 四月二七日 五三期 昭和六十年十一月 吉日
四十期 昭和 二年 四月二九日 五四期航空 昭和十四年 六月 四日
四一期 昭和 三年 四月二八日 五四期 昭和五一年 十月 吉日
四二期 昭和 四年 四月二七日 五五期航空 昭和十五年 五月 吉日
四三期 昭和 五年 四月十四日 五六期 昭和四七年 七月 吉日
四四期 昭和 六年 四月十四日 五七期 平成十一年 四月 吉日
四五期 昭和六一年 十月 吉日 五八期 昭和四七年 十月 吉日
四六期 昭和 八年 十月 十日 五九期 平成 五年 九月十三日
四七期 昭和 九年 十月 十日 六十期 昭和四九年十一月 吉日
四八期 昭和 十年 十月 十日 六一期 平成十一年 四月 吉日
四九期 昭和十一年 四月二五日
少尉候補者期 少尉候補者期
五期 大正十四年 五月 四日 十期 昭和 五年 五月 七日
六期 大正十五年 五月 三日 十一期 昭和 六年 四月二八日
七期 昭和 二年 五月 四日 十二期 昭和 七年 四月十二日
八期 昭和 三年 五月 三日 二二期 昭和五八年 九月 吉日
九期 昭和 四年 五月 五日 二四期 昭和六十年 三月 吉日
-案内板より

味のある木の鳥居をくぐります。




乃木将軍と愛馬殿号の塚
この石像は昭和初期、愛知県岡崎で開催された石刻展に入選した作品で、学習院の院長であった乃木将軍にちなんで一度学習院に献納されました。時を経て平成二年、ゆかりの那須乃木神社に奉納されたものであります
殿号(しんがりごう)は大正天皇がまだ皇太子殿下の頃、乃木将軍に賜った白馬です。将軍は殿下より賜った名馬であるため、殿号と名付けて愛育されました
将軍ご夫妻は自然を愛され、禽獣草木にまで温情をもって接し、わけても馬に対する愛情は篤く、老齢になった殿号も那須野へ移し労られました
この愛馬も将軍の後を追うように、大正三年十二月二十七日に斃れましたので、ここに土葬し、生駒守護神として慰霊の誠を尽くしたのであります
武士が乗る荒駒の勇みあひて
那須の廣野も狭くぞおもほゆ 希典
黒駒にしらあわはませますら雄が
岩が根木の根ふみさくみゆく 希典
乃木希典命/乃木静子命 百年祭記念
平成二十三年九月十三日 -案内板より


県指定史跡「乃木希典那須野旧宅」(乃木別邸)
乃木将軍として今でも親しまれている乃木希典は、明治二十四年(1891)、この地(当時・狩野村石林)に、約十四ヘクタールの土地を求めました。これは静子夫人の叔父(旧薩摩藩士・吉田清皎)が所有していたものを譲り受けたものです。購入時に、住宅一棟と納屋がありましたが、翌二十五年、乃木将軍は自ら設計して、農家風の別邸を建てました。栗の木の板を小さく切って重ねた栗小羽葺(後に瓦)平屋で建坪五十三坪(約百七十五㎡)。広い土間と囲炉裏があり、畳の部屋は六部屋ほどありました。
乃木将軍は生涯に四度の休職をしましたが、別邸を建ててからは休職中(のべ四十八ヶ月)の多くをこの別邸で過ごし、晴耕雨読の生活を送りました。別邸は平成二年(1990)に焼失し、平成五年三月に再建されました。
別邸の北側には、乃木将軍に関する書籍等が展示されている石林文庫(せきりんぶんこ)があります。-案内板より

残念ながら閉まっており、中を見る事は出来ませんでした。



乃木希典那須野別邸は、平成二年十月二十八日過激派の放火により
焼失し、同五年三月に復元されたようです。

御夫妻は「農は国の大本(おおもと)なり」と言い、
この地・那須野別邸で、自らスキを手に畑を耕しました。


愛馬殿号愛育厩舎
大正天皇が未だ東宮殿下の折御下賜になられた殿号は日露戦争後当厩にて愛育され将軍殉死後大正三年追慕するが如く斃れました-案内板より

静沼
乃木将軍として今でも親しまれる乃木希典は、明治時代に四度の休職中の多くをこの地で農業の重要性を説き、農事に励みました。その頃、この静沼は大部分が水田でした。
終戦まで小作人に貸付されていた乃木神社の所有地は、農業改革によって約四町歩(約四〇、〇〇〇㎡)を開放したため、神社には八反歩(約八、〇〇〇㎡)の水田が残っただけでした。そのうちの一反五畝(約一、五〇〇㎡)を神饌田(しんせんでん)として残し、原野を含めた約二千坪(約六、六〇〇㎡)に灌漑用貯水池を造りました。これが静沼です。
静子夫人にちなんで名付けられた静沼には、鯉が自然繁殖し、またボートを浮かべ、水車も整備、水鳥がたわむれ町民の憩いの池になりました。ボートは昭和五十年代まで利用されました。
静沼及びその周辺は、自然公園等施設整備補助事業により、平成四年~六年の三か年をかけ整備されました。-案内板より
陽も大分傾いてきました。

乃木神社参道の桜並木をぬけ、旅泊地へ向かいます。
本日の旅泊地・黒磯PA 車中泊

第11日目終了
本日の走行距離 72km
つづく