~北へ~(56)7日目① 妙義神社Ⅰ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。


        北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら





SAから見えていた「岩山」が何となく気になり、
高速を降りて近づいてみました。



神社がございました。

  

妙義神社です。
  社号を見て「江戸の乾(戌亥)天門の鎮め、あの妙義神社かなぁと思いながら参道を進みました。

 

創建は、宣化天皇二年(537年)と伝わります。

               



総門(旧白雲山石塔寺の仁王門)安永二年(1773)建造:重要文化財
               
       

         
                   見事な石垣
     
                    妙義神社 社殿 説明板 あの妙義神社でした。
       
             

       
境内は上部の神域と下部の旧寺域に分かれており、これらは明暦から元禄年間に長清法印により基盤が造られたのち、宝暦年問から安永年間にかけて大造営が行われてさらに整備されたものである。
参道は県道に面した一の鳥居(昭和四十九年)から御本社のある神域まで、ほぼ一直線に延びている。
鳥居をくぐり急坂を上り詰めると総門(安永二年・重文)がある。
その先の石段を上がった右手側は、明治期以前に石塔寺がおかれていた旧寺域で、現在は社務所(建立年代不詳・市文)と御殿(嘉永六年・市文)が置かれている。
石段を上がると、旧寺域と同じ高さに銅鳥居(享保四年・県重文)がある。
これをくぐった右手奥には旧御本社の波己曾社(明暦二年・県重文、昭和四十四年に上部神域より現在地に移築)が鎮座する。
銅鳥居から参道を進んで石造の太鼓橋を渡ると、上部神域へと一直線に延びる百六十五段の石段がある。
これを登り切った神域の入り口に随神門(明暦頃・県重文)があり、北側に袖廻廊(明暦頃・県重文)を連ねる。
随神門をくぐると正面に神域上段部の石垣(延享元年・県重文)が現れる。
ここで参道を左にいったん鈎の手に折れ進むと右手に石段がある。これを上ると神域上段部の入り口となる唐門(宝暦六年・重 文)がある。
唐門の南北石垣上には袖塀が廻され、南側は神楽拝見殿が接続する。南北面にはそれぞれ南門・北門が設けられる。
唐門をくぐった正面には拝殿、幣殿、本殿からなる御本社(宝暦六年・重文)が鎮座する。
御本社拝殿北 側には神餞所(宝暦六年・重文附)が附属する。
境内の形成『由来記』によると明暦二年から元禄年間までに旧御本社の波 己曾社殿のほか、力神門、随神門、廻廊(袖廻廊)、神楽殿、神楽施主小屋、 護摩堂、御供所、天狗堂など諸建物が建立されている。
また、参道石段脇石に 宝永の年号が確認されていることから、この時期には上部神域随神門レベルの造成と参道の整備、および下部寺域の基本的な地盤が造成されたと考えられる。
以後、百年を経ないうちに豪華な装飾が施された現御本社に建て直されている。-公式WEBより


  
   青銅の大鳥居 享保四年(1702)建造 

  
  波己曽神社(旧本殿)明暦二年(1656)建造

                 

     
上部神域へと延びる165段の石段    石橋と手水舎



                              つづく