~北へ~(51)6日目⑥ めし・荒砥城 Ⅰ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

        北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら


まだ昼前ですが、店を探しながら次なる地を目指します。

  
華龍飯店(千曲市・ヤマダ電機の前)

目立つ看板、PもあるのでIN
チャーシューメンを頼むと「こってり」「あっさり」があるというので、
「こってり」を注文。店員は中華国人だと思います。
着丼印象は、器が小さい。スープ一口、化調多めの普通の豚骨醤油。
麺、こんがらがっており茹でむらが。不味く食べれるが、雑なラーメン。


チャーシューメン(こってり)


腹ごしらえを終え、次に向かったのは「荒砥城」です。

    

連郭式山城である荒砥城は、千曲川を見下ろす冠着山支脈の
城山(標高895m)山頂を本郭とする城で、山田城・砥沢城とも呼ばれてます。



現在は、千曲市城山史跡公園として整備され、中世の史実に基づいて
戦国期の山城が復元されております。


オレンジ線部分が荒砥城

荒砥城は、室町時代から戦国時代にかけて、この地を支配した豪族
村上氏の支族である山田氏によって築かれた山城で、南方に相対する
狐落城ともに、葛尾城(かつらおじょう)の重要な詰め城であります。

   
有料区画入口の門       四の廓   

戦国時代、荒砥城主の山田国政は天文20年(1551)に真田幸隆の
策略により砥石城で討死し、葛尾城の城主であった村上義清は、
天文22年(1553)に武田信玄公に攻められ葛尾城が落城し遁走。
荒砥城は武田方の屋代政国の領するところとなります。

 
三の廓手前に建つ「皇紀二千六百年記念碑」と祠

領地奪還を目指す村上義清に長尾景虎(上杉謙信)が加勢して川中島の
戦いがはじまり、12年に及ぶ戦いを経て荒砥城は上杉氏の治める城と
なります。

  
               二の廓門

しかし、海津城(のちの松代城)の副将であった屋代秀正は、
上杉氏に背き海津城を出て武田氏の後ろ盾で荒砥城に籠城、
天正10年(1582)武田家滅亡後、徳川氏に通じるが、天正12年
(1584)に上杉軍に攻められて荒砥城は落城、秀正は、落ち延びる
際に城に火を放ち、徳川の下へ。以後廃城となりました。

   

二の郭門をくぐると、すぐ右に折れ、道はより一層細くなります。

          
           二の郭櫓


櫓からの眺め(左の山に葛尾城があった)

 
二の郭門と兵舎








                              つづく