北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら
大天守を下り、辰巳附櫓に。






天守の辰巳(南東)にあたり、隣接している月見櫓とともに松平直政によって寛永年間に増築されました。
櫓西面の北から2本の柱は天守の柱に添えられていて、付設されたことがわかります。
上方が狭く下方が曲線状にひろがった花頭窓は、禅宗建築とともに鎌倉時代に中国から伝わり、次第に城郭建築にも広がりました。
松本城天守には乾小天守四階にも設けられています。-説明板より


辰巳附櫓から大手口を見る。 よく見ると昔風の人が。
更に階段を下り、月見櫓へ。

北・東・南に設えてある舞良戸を外すと、三方吹き抜けになり、回りに巡らされた朱塗りの回縁や船底型の天井など書院風の造りと相まって、優雅な雰囲気を醸し出し、天守・渡櫓・乾小天守と比べ開放的で、平和な時代に造られたことがよく分る。
この月見櫓は松本城主松平直政(家康の孫)によって、一国一城令という統制の厳しい中、寛永年中に三代将軍家光を迎えるため、増築されたものである。
現存する城郭建築の中で月見櫓を持つのは松本城と岡山城だけであるが、天守と一体となっているのは、松本城だけである。-説明板より











本丸土塁と巨木
松本藩戊辰出兵記念碑


新政府は明治元(戊辰)年1月、鳥羽伏見の戦いに勝利すると、徳川慶喜と会津藩へ追討令を発し、東海・東山・北陸道から江戸に兵を発した。
松本藩は征討軍が木曾路を過ぎた2月29日、急遽藩士を二の丸書院に集め、佐幕か勤皇かの帰趨を求めた。
議論白熱衆論決せず、夜半に至って藩主の裁断でようやく帰順に決した。
松本藩はこれ以後官軍の先鋒として宇都宮や北越に転戦して北越・会津戦争の勝利に貢献した。
この碑には戊辰戦争出兵の経過と従軍武士261名の氏名が刻まれている。-説明板より
つづく