はいよーこんばんわー。

昨日、平日休みをもぎ取ったので、ぼんやりと箱根に行ってきました。

 

ぼんやりするのが目的だったので、

写真も撮らずにうろうろ。時折、思い出してはパチリ。

まったくSNS向きじゃない性格だわ(^_^;)

 

ついこの間、『長英逃亡』(新潮文庫 吉村昭)を読んだばかりだったせいか

「関所行こう、関所!」と思いましてね。

小田原城なんて見ちゃって、

 

 お城のお堀で出会ったハクセキレイちゃん。

 

国道1号線から西へドライブ。甘酒茶屋で休憩して

↑これ、「足半(あしなか)ぞうり(のミニチュア)」というそうです。

足の半分くらいまでしかないわらじがかわいくて購入。

足腰を鍛えるのにいいそうです。フムフム、足腰ね。大事。

 

天下の険「箱根関所」に到着です。

この写真は「遠見番所」と呼ばれる高台まで登って撮影。

なんと、異国の船も見えますねぇ。攘夷か開国か!?笑

 

江戸の親戚に預けられた「お玉」という女の子

(年齢はわからないらしいが子どもだったそう)が

江戸の生活に耐えられず、逃げてきて箱根で捕らえられ、

ここで処刑されてしまったという記録も残っているそう。

おそろしい時代だよ…。

 

箱根神社にお詣りしたり

恩賜箱根公園を見学したりしてきました。

芦ノ湖にちょいと突き出した「鼻」と呼ばれる岬に立てられた

明治時代の皇族の避暑地 兼 外国の賓客をもてなすための離宮の洋館が残っています。

(洋館の写真はなし。晴れていれば芦ノ湖越しに富士山も見えるそうです。)

↑これ、二百階段とよばれる離宮時代の石組みなんだそう。

こういうの、好き。

 

帰りはやっぱり富士山、見てきました。

なかなか晴れなくて、晴れたと思ったら運転中で。

道の駅すばしりでようやく1枚。実物はもっとキレイですよ♫

 

山中湖、河口湖をうろうろして、帰ろうか・・と思ったらなんと雪?あられ??

吹雪だよ~!

あぁ、タイヤまだ冬用のままでよかった(>_<)

ま、1時間くらいで止みましたけどね。

 

明日は仕事か。年度末、忙しいんだよね。

1日休んじゃったから、書類溜まってるだろうな…

ずぅっと前、まだ私が自他共に認める若者だった頃に読んだ本(か雑誌)で

「前方後円墳の形は、祭祀に使われた銅鐸を模している」的な説を読んだ。

「前方後円墳を銅鐸に例えたとき口の開いた部分が、ご神体の山を向いている」

という内容だったように記憶している。

 

その頃は「なるほどなぁ!」と思ったけど、

世界遺産「百舌・古市古墳群」を訪れた時、ガイドさんの話の中で

「当時の交通の主要ルートである場所から大きく見える向き」という話を聞いた。

海だったり、河川だったり。

 

なるほど~と思ったよね。大きな塚を作ったら自然と円墳になるだろうけど、

そこに祭祀の要素や、権力や威厳を大きさで表そうとしたら

手前に四角いエリアを作って、しかもより大きく見せたくなるものだろう。

しかも、誰にそれを示すかといえば、そのクニを訪れる異邦人に対してだろうね。

 

今日、近所の小さな古墳(その後、神社になってた)を見てきたけど

確かにそばを流れる川に沿う形で建造されてたようだ。

川を交易路として活用していたであろう古代には

「あれはなんだー!突然現れたあの人工的な山は!!」となったのかもしれないね。

 

 

・・・と、ここまでつらつら書いてみて、

百舌・古市古墳群に行った時の記事にリンクを張ろうと思ったら、

あれれ?私、まだ書いてないの?見つからない。書いたはずなのに。

おかしいなぁあるはず、書いたと思ったんだけどなぁ・・・多分、きっと・・・。

最近、私、よく歩いてるよ。家の周りとか、ちょっと車で出掛けて

くるっと一回り歩いてまた戻る、とかね。(土手沿いが好きかな)

だから最近はよく通る道だけど『こんなものがあったのかびっくり

『あれってこれだったのかニヤリ』的な発見してます♫

 

今日は地図上で近所にも富士山がある!富士山と気づいて行ってみました。

東上線高坂駅から「まなびの道」というウォーキングコースに沿って歩きます。

 東松山市の観光パンフレット 🚶🚶🚶

 

行ってみて「あぁ、この道のことか!」と気がつきました。

その脇の道路は車で何度も通ったことがあります。へぇ、ここって貨物線が通ってたのね。

その「まなびの道」沿いには古墳が点在しています。

地図ではすぐ道沿いでも、高低差があったり私有地を迂回しなくちゃならなかったりで

あれれ、なんだかずいぶんタイムロスしちゃったな(^_^;)

 

みつけた富士塚は、やっぱり車で通ったことがある場所でした。

扁額は石で『富士浅間神社』と端正な文字で書かれています。

「あ、ここかぁ!」って感じよ。

真南から60メートルほどの参道が通っていて、階段下の1合目(?)に到着。

よし、登るぞ!

社殿は真南を向いているようです。

階段の上には、

  

【左】文化三年丙寅(ひのえとら)六月吉祥日

【右】奉建立石壇 願主惣氏・・・ と読めます。

坂上田村麻呂が神体を安置し(西暦800年頃)、

足利基氏が社殿を建立(西暦1362年)したそうですから(チョット調べた)

この文化三(1806)年に参道を整備した、ということなのでしょうね。

文化三年というのは西暦wikipediaによると

4月に江戸三大大火のひとつ「文化の大火」があったそうです。関係あるかな?

この時代はたくさんの文化人が活躍していたようで

富士山関係だと葛飾北斎もこの時代の人。富士講は流行っていたかもしれません。

 

この神社のあるこんもりしたお山は

もとは古墳で、写真の右側に前方部があったそうです。削られちゃったのね(^^;)

この地域の偉い人が葬られ、その後その塚の上に神社を建てたのでしょう。

ここで富士講が行われていたのかもしれませんねぇ富士山

 

 

 

 

・・・それにしても古墳の中の人、どういう人だったんでしょうねぇ照れ