旅の予定、最終日は宇佐へ。宇佐八幡神託事件の宇佐神宮ですね~。この事件、不思議ですよね、道鏡が天皇位を狙って、その是非について和気清麻呂が宇佐八幡に伺いをたて真の神託を得る…という事件。宇佐神宮が、天皇家にとってもっとも高位の社だったということじゃぁないですか?高校時代から、「どうして宇佐なんだろう?」「伊勢神宮じゃなくて?」とずっとずっと思っておりました。
特に高木彬光氏の神津恭介シリーズ『邪馬台国の秘密』では、宇佐神宮を邪馬台国中心地として比定していましたねっ!
さぁ!まいりましょう!!
こちらは駐車場の鳥居。
御由緒はゆっくり読む派です。

寄藻(よりも)川を渡って、向こう岸の神宮にお邪魔します。川を渡る、のか…

寄藻川は場所によって名前が変わります。この橋は「神橋」ですが、神橋から下流(写真に写っている方角)は「浅瀬川」、上流の呉橋までの部分を「月瀬川」、呉橋から上流は寄藻川、あるいは呉橋川といいます。「寄藻川」はその総称だそうですよ。面白い!!

なんだか結界めいた強さを感じる鳥居の立ち姿ですねぇ…

宇佐神宮の鳥居には額束(がくつか:鳥居の水平な笠木と島木の間の中央に垂直に立てる柱。神社の名前などを掲げる装飾的な意味もあります。)がありません。宇佐鳥居と呼ばれるそうです。ホントだ、どうしてなんだろ…。
まずは菱形池と呼ばれる池(心字池じゃないんですね)の奥の「御霊水」を見に行きます。

雪が降り始めました。寒くて静か。この朱い橋は島のお堂に掛けられています。池の中にゴイサギがいます、横目で私をじっと観察しているようでした。

ここまで来る人は少ないみたいです。独り占めでした。

「欽明天皇32(571)辛卯、八幡大明神、筑紫に顕れたまふ…」
この御霊水の最奥にある八角形の影向石(ようごうせき)には、八幡大神が神馬に召され天翔けられた時の馬蹄の跡が残されている、ともあります。日本中の「はちまんさま」と呼ばれる神社の総本宮の、さらに一番初めの場所ですな。

タイトルにした「神と仏が…」はこの案内板からいただきました。
奈良時代に南九州の隼人(はやと)や東北の蝦夷(えみし)と呼ばれた人々が、律令制度に与せず抵抗したことが様々な資料からわかっています。まぁ、そりゃそうですよね~その土地で自分達の文化を守って生活していたのに、中央の権力者に唐突に傘下に下れと言われても従えないですよ。特に大きな戦乱としては、8世紀の「隼人の反乱(720~721)」。これを鎮めるためにここ「宇佐の八幡神」が神輿に担がれ、宇佐の人々も戦いに参加したそうです。その後、隼人の戦いでの殺生を悔いた八幡神が仏教に救いを求めた、ということが神と仏の出会い、とされているようです。
隼人の反乱鎮圧後、弥勒寺が移され金堂や講堂が建立されるなど神仏習合はどんどん進みます。これは時の聖武天皇(ご在位724~749年)の力添えが大きかったようです。でしょうね~、本来日本古来の神の系譜であられる天皇が仏の道を信仰されていたわけですからね。日本独自の考え方がここに定着していったわけですな。
こちら↓が弥勒寺跡といわれる史跡。

今は礎石しか残っていません。
上宮(じょうぐう)は建造物も立派ですが、この古木との対比がよかったなぁ。

こちら↓は下宮(げぐう)。

「下宮参らにゃ片参り」と言われるそうですが大丈夫、参拝者の動線は出来上がっています。自然とお参りできるようになってます。上宮は国家の神、下宮は庶民の神、だそうですよ。でも祀られているのはどちらの宮も「八幡大神」「比売大神」「神功皇后」の三柱なんですね~。
…ちょっと文字数が多くなったので、前半終了。
以下次号!…ってことで
あ、そうそう。こちら、宇佐神宮は一般的な二拝二拍手一拝ではなく「二拝四拍手一拝」です。「し」はくしゅ、出雲大社と同じですね…。
(ちなみに二礼とも言いますが、拝と礼はお辞儀の角度が違います。拝の方がより丁寧なのでここでは「拝」と表記しました。)