川口さんから『中庸』という言葉を聞いて以降、
折につけ、中庸であろうとすることと、
『中庸』を超える生き方とはということかということに思いを巡らせていましたが、
なかなか思考がまとまりませんでした。
ちなみに、『中庸』の意味を辞書で引くと、
『どちらにもかたよることなく、常に変わらないこと。
過不足がなく調和がとれていること。』という意味とともに、
『ふつうであること。尋常であること。凡庸』という意味も併記されています。
つまり解釈しだいで、微妙にニュアンスが違ってくるということでしょう。
そうであるならば、頭で論理的に考えているだけでなく、
『結局のところ、自分はどうしたいのか、どうありたいのか』
ということを主体に考えようと思いました。
そして、『自分の魂が喜ぶ生き方』は何なのかを考え続けた結果、
「教職を卒業して自然農の百姓として生きていこう」という答えに至りました。
父母の教師としての姿に感銘を受け、自然と教職への道を歩み、
充実した日々を過ごしていた僕ではありましたが、
一面で、山積する教育的課題に対して、学びなおした環境教育も含めて、
根底のところで無力感も感じ始めていた僕にとって、
それは、それより3年前に一度決意していたことだったのです。
(その時点で姉や母も交えた家族会議で、家内のご両親からは
「辞めたら、(家内を)連れて帰るから、心するように」
と言い渡されました。)
それでも、僕は(教職を)辞めるつもりでしたが、
母が脳梗塞で倒れたことによって保留になりました。
でも、2年間の穏やかな寝たきりの日々の後に母が僕の誕生日に
天に帰っていったことは、母は僕に『自分で信じた道に進みなさい』
と、親として道を譲ってくれたこととして受け止めたのです。
そして、自分なりに、その答えが決まり腹がすわれば、
あとは出来るだけみんなに応援されるようなあり方はと考えました。
母の8人の兄弟姉妹は何かにつけ世話焼きの人たちばかりでしたから、
事前に伝えておく必要があると思いました。
いつも何かとお世話になっている専業農家の従兄にも。
(もちろん全員に反対されました。)
3年前に大反対された家内のご両親には、あえて事前の了承は得ませんでした。
(おかげで退職後1年間は家内の実家には出入り禁止になりました。)
そして、何よりも、百姓に転身する限りは『自然農』という名を
使わせてもらいたいなぁと思ったので、
11月の漢方学習会の日の午前中に川口さんのお宅を訪ねて、
教職を退いて百姓になろうと考えていること。
ついては『自然農』という呼び名を使わせてもらいたいということ
をお願いに伺いました。
その時、川口さんは「『自然農』というのは僕が言い始めた言葉かも
しれませんが、誰のものでもありませんから」とおっしゃられたと思います。
(恥ずかしながら、実ははっきりとは覚えてないのです。)
その代わりに、奥様(洋子さん)が、
「それなら、お父さんの名前も遠慮せず使ったらいいんちがう。」
と言ってくださったのははっきり覚えています。
その時の漢方学習会の3日間も、川口さんが、そのことについて
何か直接お話をいただくことはなかったのですが、
その時、川口さんがどういう思いを持たれていたのかは、
その3か月後ぐらいにわかることになるのです(続く)
これは、『妙なる畑に立ちて』より、川口さんの奥様(洋子さん)の挿絵
師や奥様にに出会えたことは、今でも本当にありがたく思っています。
P.S.
ちなみに、川口さんが慣行農法から自然農に切り替えられたのは、
農薬でご自分の体を壊された時に、有吉佐和子さんの『複合汚染』を
読まれて、農薬の怖さに気づいたことがきっかけのように聞いています。
その時のお歳が38歳。それから10年、40歳代末に『妙なる畑に立ちて』
をまとめられる境地に至られています。
僕は、既にそれより干支ひとまわり歳を重ねていますが、
まだまだあの境地には立てていないと思うので、
まずはその境地に至ることを目標としています。
なお、うちは子供時代から両親からあまりとやかく言われなかったので、
進路もサークル選びも職業選択も、趣味(登山とか)も
自分がしたいことをしてきていたこともあり、
自分で選択してそれなりの充実感を感じてもいた教職を卒業することも、
あまり抵抗なく選択できたのでよかったと思っています。
(ま、もう少し早くてもよかったとは思いますが(*^^*))
なお、家内も含めて、周りの皆さんからは反対されましたが、
家内や子どもたちに対しても、その選択の方が、結果的に幸せに至れる道だ
と考えました。(家内には「実家に戻ってもいいよ」と言いましたが、
子どもたちもいたためか、そういう選択をせずに、一緒にいてくれたのは、
今でもありがたかったなと思っています。)
あと、地球環境問題等の危機的な状況を知った後で生まれてきた長女に対して、
言い訳をしない生き方がしたかったというのも、選択の一つの要因となりました。