梅の里自然農園便り

梅の里自然農園便り

「自然農」の田畑の様子と、「自然農」の世界を中心にお伝えしていきたいと思っています

ようやく落ちだしたみたいなので昨日から収穫を始めました。

10年前ぐらいに中山間地の畑に植えた3本は写真の位になっているので、

昨年から収穫するようになりました。

それまでも少しは実っていたのだと思いますが、

7年前ぐらい前に電柵に通電しなくなってしまってからは、

イノシシやシカの被害に遭い続けたこともあり、

去年までの数年間は足が遠のいていました。

 

なお、この樹の後に植えた樹は20本の半数以上

シカの食害に会ってあまり育っていないので、

今しばらくはお届けするほどの量は採れないかもしれません。

でも、それなりに採れるようになって、

お届け出来るようになったらなと思っています(*^^*)

赤目自然農塾のような自然農の学びの場でも、漢方学習会の学びの場でも、

川口さんがいちばん大切にされておられたことは、

『学ぶ者の自立を促すような学びであること』

だと思っています。

 

そのため、例えば、自然農の学びの中心地である赤目自然農塾では、

午前中は川口さんやスタッフの皆さんが、お米づくりや野菜づくりの

やり方を説明しながら実際に作業されるのを見学し、

午後は、各自の田畑で、自分達自身で実践するというやり方を基本とされていました。

なお、自然農にはもちろん

・出来るだけ田畑を耕さない。

・草や虫を敵としない。

・農薬、除草剤、化学肥料を使わない。

といった、基本となる大事にしていくべき理念がありますので、

それらを言葉を通じて学ぶことも大切なことなのですが、

それらを理解し腹に落とし込む場としての座学は前日土曜日夜に行われていました。

 

その際に川口さんがしばしば言われていたことは、

『私の言葉にとらわれすぎることのないように』ということでした。

 

つまり、自然農というものは、それぞれの田畑のその時その時の

状況や状態に応じて融通無碍に対応していくものであって、

それらにどう対応していくかも含めて、

人の側の在り方(大げさに言えば生き方)次第だということです。

高い境地に至られた師の在り方をリスペクトし真似しつつも、

師に依存することのない自らの在り方を体得すること、

そして自立していくこと、それが師が僕たち後を行く者に対して

最も望んでいた姿だったのだと、改めて思い起こしている今宵です。
 

僕が最初に川口さんに会ったのは1998年2月、

赤目自然農塾のその期のスタートの日でした。

自然農の学びはそこが始まりで、やがて2年遅れて漢方(古方)の方の

学びにも参加するようになりました。(以前の投稿参照)

そして、去年の3月の最後の漢方学習会まで、四半世紀にわたって

学ばせてもらってきました。

 

その間に学ばせてもらったことはほんとうに多岐にわたるものですが、

一番の要(かなめ)を挙げるとするならば、

『自然農も漢方も人が健康で幸せに生きていくためには極めて大事なことであること』

だと考えています。

そして、同時に、その二つのことは 頭や心で理解するだけでなく、

技術も含めてしっかりと身に着けていくことが肝心であり、

そのためには『学ぶ側の在り方』が最も大事なことだということも。

つまり、自然農は人に対しても自然界に対しても一切問題を招かない

唯一の農の在り方であり、漢方(古方)は、あらゆる人の全ての病に

対処できる素晴らしい治療体系であることは間違いがないことなのだけれど、

それを可能にすることができるかどうかは、

本人の境地の高さと、理解力や判断力も含めた、

『本当のこと』を見極めることのできる力(在り方)次第だということです。

 

言い換えれば、自然農も漢方も優れた刀には違いないのだけれど、

どんなに斬れる刀でも俗人にはなまくら(あるいは、むやみに人を傷つけてしまうもの)

にしかならないように、

両者ともに剣の達人になってこそその本来の威力を発揮させることができる

ものだということです。

 

なので、どちらも達人になるための絶え間ない修練を積んでいくことが

必須のことで、今の自分にはその修練がちゃんと続けられているのかを

折に触れ考えたりしつつの毎日を過ごしています。

「教師を辞して自然農の百姓になるとのことですが、

勇惣さんには勇惣さんの教育者としての役割というか、

使命天命がおありになると思うので、どうか慎重に考えていただけたらと思います。」

 

川口さんからお電話をいただいたのは、僕がご挨拶に行ってから

二か月あまりたってからのことでした。

 

直接お電話をもらうのは初めてのことだったので、ちょっと驚きました。

川口さんは漢方学習会の時に話されるつもりだったのかもしれませんが、

僕は1月の漢方学習会は欠席してしまったので、わざわざお電話を

くださったのだろうと思います。

(その頃僕は退職に向けて進んでいましたので、四半世紀の教職おさめに

向けての準備が色々とあったのだと思います。

もちろんその年も担任も持っていたので、次年度へのの引継ぎの準備も必要でしたし。)

 

そのお電話でいただいたのが先のお言葉でした。

前年11月の漢方学習会の日にお宅に伺った時には、

退職の意向に対して、特に川口さんの考えは語られなかったものの、

二月たってからの師の言葉は少々重く感じました。

でも、既に周りの皆さんの反対の声にもたじろぐことなく、

校長先生の慰留も振り切り、教育委員会の方へも退職の意向を伝えた後でのことでしたし、師の想いを聞いても、僕の意志が揺らぐことはありませんでした。

(その時点で、意向を翻す方が周りにも迷惑をかけたことでしょうし。)

 

ちなみに、この時のことを、後々も川口さんは漢方学習会とかの時に

何度か紹介されていたことを思うと、

師の「慎重に考えてください」という言葉を振り切ってまでも、

自然農の百姓に転身した僕のことを、それなりにしっかりと

受け止めていただけていたんだなぁと懐かしく思い起こしている朝です。
 

P.S.

ちなみに、お電話をいただいた時点で、既に動き始めていたものの、

せっかく師から『役割、使命天命』ということに対しての設問をいただいたので、

改めて僕も考えることはしました。

 

で、改めて現職のまま大学院に行かせてもらって学びなおした

『環境教育』に関しても、自分の力不足を感じつつ教職を続けるよりは、

それぞれの人が食の自立を進めていくための『自然農』の

心や技を伝えていくことの方がより僕の役割ではないかと考えました。

 

また、師や自然農を生業として生きておられる先輩方の姿からは、

自らの生を全うしている潔さが垣間見られ、僕も彼らのように生きたい

という想いも再確認しましたし、自分の子どもたちに対しても、

それが父の言い訳をしない生き方だと胸を張れることだと思えたんですね。

川口さんから『中庸』という言葉を聞いて以降、

折につけ、中庸であろうとすることと、

『中庸』を超える生き方とはということかということに思いを巡らせていましたが、

なかなか思考がまとまりませんでした。

 

ちなみに、『中庸』の意味を辞書で引くと、

『どちらにもかたよることなく、常に変わらないこと。

過不足がなく調和がとれていること。』という意味とともに、

『ふつうであること。尋常であること。凡庸』という意味も併記されています。

つまり解釈しだいで、微妙にニュアンスが違ってくるということでしょう。

 

そうであるならば、頭で論理的に考えているだけでなく、

『結局のところ、自分はどうしたいのか、どうありたいのか』

ということを主体に考えようと思いました。

 

そして、『自分の魂が喜ぶ生き方』は何なのかを考え続けた結果、

「教職を卒業して自然農の百姓として生きていこう」という答えに至りました。

 

父母の教師としての姿に感銘を受け、自然と教職への道を歩み、

充実した日々を過ごしていた僕ではありましたが、

一面で、山積する教育的課題に対して、学びなおした環境教育も含めて、

根底のところで無力感も感じ始めていた僕にとって、

それは、それより3年前に一度決意していたことだったのです。

(その時点で姉や母も交えた家族会議で、家内のご両親からは

「辞めたら、(家内を)連れて帰るから、心するように」

と言い渡されました。)

 

それでも、僕は(教職を)辞めるつもりでしたが、

母が脳梗塞で倒れたことによって保留になりました。

 

でも、2年間の穏やかな寝たきりの日々の後に母が僕の誕生日に

天に帰っていったことは、母は僕に『自分で信じた道に進みなさい』

と、親として道を譲ってくれたこととして受け止めたのです。

 

そして、自分なりに、その答えが決まり腹がすわれば、

あとは出来るだけみんなに応援されるようなあり方はと考えました。

母の8人の兄弟姉妹は何かにつけ世話焼きの人たちばかりでしたから、

事前に伝えておく必要があると思いました。

いつも何かとお世話になっている専業農家の従兄にも。

(もちろん全員に反対されました。)

 

3年前に大反対された家内のご両親には、あえて事前の了承は得ませんでした。

(おかげで退職後1年間は家内の実家には出入り禁止になりました。)

 

そして、何よりも、百姓に転身する限りは『自然農』という名を

使わせてもらいたいなぁと思ったので、

11月の漢方学習会の日の午前中に川口さんのお宅を訪ねて、

教職を退いて百姓になろうと考えていること。

ついては『自然農』という呼び名を使わせてもらいたいということ

をお願いに伺いました。

 

その時、川口さんは「『自然農』というのは僕が言い始めた言葉かも

しれませんが、誰のものでもありませんから」とおっしゃられたと思います。

(恥ずかしながら、実ははっきりとは覚えてないのです。)

その代わりに、奥様(洋子さん)が、

「それなら、お父さんの名前も遠慮せず使ったらいいんちがう。」

と言ってくださったのははっきり覚えています。

 

その時の漢方学習会の3日間も、川口さんが、そのことについて

何か直接お話をいただくことはなかったのですが、

その時、川口さんがどういう思いを持たれていたのかは、

その3か月後ぐらいにわかることになるのです(続く)

これは、『妙なる畑に立ちて』より、川口さんの奥様(洋子さん)の挿絵
師や奥様にに出会えたことは、今でも本当にありがたく思っています。


P.S.

ちなみに、川口さんが慣行農法から自然農に切り替えられたのは、

農薬でご自分の体を壊された時に、有吉佐和子さんの『複合汚染』を

読まれて、農薬の怖さに気づいたことがきっかけのように聞いています。


その時のお歳が38歳。それから10年、40歳代末に『妙なる畑に立ちて』

をまとめられる境地に至られています。

僕は、既にそれより干支ひとまわり歳を重ねていますが、

まだまだあの境地には立てていないと思うので、

まずはその境地に至ることを目標としています。

 

なお、うちは子供時代から両親からあまりとやかく言われなかったので、

進路もサークル選びも職業選択も、趣味(登山とか)も

自分がしたいことをしてきていたこともあり、

自分で選択してそれなりの充実感を感じてもいた教職を卒業することも、

あまり抵抗なく選択できたのでよかったと思っています。

(ま、もう少し早くてもよかったとは思いますが(*^^*))

 

なお、家内も含めて、周りの皆さんからは反対されましたが、

家内や子どもたちに対しても、その選択の方が、結果的に幸せに至れる道だ

と考えました。(家内には「実家に戻ってもいいよ」と言いましたが、

子どもたちもいたためか、そういう選択をせずに、一緒にいてくれたのは、

今でもありがたかったなと思っています。)

 

あと、地球環境問題等の危機的な状況を知った後で生まれてきた長女に対して、

言い訳をしない生き方がしたかったというのも、選択の一つの要因となりました。