ド田舎育ちのわたくしめの幼少期エピソードです指差し

 

 

 

他の投稿でも何度か触れましたが、サラマの田舎には普通科の高校が一校しかなく、ある程度の成績が取れる人間はみんなそこに行くというシステムでした。

高校の同級生には、有名国立大で教鞭とる人も、都会で起業して潤っている人も、地元の農協職員も、高校の途中で行方をくらました人もおりまして、選んだ道は違うといえども再会すると社会的ステータス関係なくみんなが垣根なく楽しくお酒飲めるこの地元の空気感をサラマは居心地よく感じております目がハート

 

少し前に私の地元では学歴が付き合い上重視されないことを書きましたが、それは、私たちが、まだ何者にもなっていない幼少期から単なる人間として長い時間を一緒に過ごしてきたからだと思うんです。

みんな親戚的な感覚アリ。

うんちょ事件もそうだけれど、他にも数えきれないほどに、揉めては仲直りして、揉めては仲直りして、を繰り返してきた結果として、結局、全体的に「他人と揉めることをビビらない」し、(恋人であれ、友達であれ)人を好きになる時に「相手の悪いところも包括したうえで相手を好きでいられる」人間が多い気がします。

 

「相手の悪いところも包括したうえで相手を好きでいられる」。

言い換えたら、

「自分の悪いところも包括したうえで自分を好いてもらえる」。

 

自分に多少クセがあろうともその程度で嫌われたりしないという謎の自信がサラマにもあったりします知らんぷり

だって物心ついてからいっぱいしくじってるもん。真摯に謝って周りから過ちを許してもらえなかったことなんてなかったし、「欠点も含め「しゃあねぇなぁ」と受け入れてもらえる」状態が私にとっては当たり前なのです。

ですから、大人になってから誰かと知り合う段階にあがっても、相手に気に入ってもらえそうな自分を演出しようと考えたことがありません。

むしろ、私のいいところだけ見て気に入ってもらっても困っちゃう、だって私いいところばかりじゃないもん。という気持ちにさえなる不安

誰かに好かれるための努力だけでなく「友達にもなかなか本音で話せない」という事態も理解できない。だって本音ではない話ってのをしたことがないんだもんね…

素の自分で振る舞ってみて、現在自分いる立ち位置にフィットする人がいないとしても「地元に帰れば受け入れてくれる友達がいる」ので動じない。

 

自分の育ち方はわりと極端で特殊であったのは理解していますが、まあ、そういう感じに育ってしまった私なのですよ。

そんな私がひっかかるのはですね、「長く付き合う人間関係から学ぶものがある」というベネフィットを心得つつも我が子に対してそれを与えることができないことですよね。


もう腹は括っているので吹っ切れてます。

が、一時期はけっこうシリアスに悩んだものでした真顔

 

人格形成期に安定した人間関係を与えてあげたかった。

が、家族の事情でそうもいかないので、母親としてとりうる最大策を講じて、あとは、天の采配に任せる。

数年ごとに断たれる人間関係ではあるけれど、可能な限り、揉めたり、喧嘩したり、仲直りしながら「友達ってこれっぽっちのことで自分を嫌いになったりしないんだ」ということを体験から学んでほしい。

みっともなく取り乱しても、全力で寄りかかっても、受け止めてくれる人間がたくさんいることを体感してほしい。

自分のことを好きな人は自分のみっともないところも含めて好きなんだよってことを理解してほしい。

 

我が子が人生においてどういう人と巡り合うかというはもう人間のコントロール範疇外の話ですから、

 

我が子たちがそういうご縁に恵まれるように、お母さんは…お母さんは…

 

えっと、

 

祈りを捧げるカンボジア舞踊でも踊ってたらいいかな。


子供インターに通わせられていいねとかよく言われますがね真顔

英語しゃべれても他人と深いつきあいを築けない人より、英語しゃべれないとしても他人に心開ける人の方が幸せな人生じゃね?とか思う私です。



まあさ。転勤族はさ。国境越えでない、国内転勤族でも同じような悩みを持ちますよね。

一緒に頑張りましょうね…真顔真顔