まぁ、そういうわけでですね、
我が家では我の強い二人が時折りくだらないことでバトる家庭としてやっていく方針になったわけです
そういう方針に至るまでの過程を遡って話すとですよ、
ハッキリ言って私個人は揉めたくなかったんですよ。
でも、それ以外になす術がなかった。
夫も子供と暮らしたがったし、子供も夫と暮らしたがったし。
いつも揉めるわけではない。
頻度としてはそこまで高くない。
でもぶつかった時の熱量がすさまじい。
なんでこやつはすぐにヒートアップするんだろ…
なぜフランス人のように無責任にダラダラと議論を楽しめないのだ
夫となるべく顔を合わせないように暮らしてみたこともあるし、
会話を最小限に減らしてみたこともあるし、
直接言い返さずに言い返したい内容を文章にしたためることで昇華するようにしたこともあるし、
娘の幼稚園までの送迎中、
周りのデンマーク人が日本語を理解しないのをいいことに、
夫へ言い返したかった内容を悪態つきながら自転車をこぐようにしてみたこともあります
変な人がおるってデンマーク人達の間で噂になってたかもしれん
往復1時間。不思議なことに、1時間も文句言い続けてると、さすがにネタが尽きるのか、帰宅頃=つまり1時間くらい経った頃には自然と夫の長所がみえてくるという謎現象も経験したww
結局のところどの方法も精神衛生上良い感じはせず
口論するような家庭で子供を育てたくないと思いつつも、
結婚生活が私の理想にかなわないからという理由で子供と過ごす権利を夫からはく奪する勇気もなく、
悲しいかな、欧米化されている私はこういう時にもやたら<義務>と<権利>を気にしてしまうわけ。
結果として、子供に申し訳なく思いながらも、ごくたまにバカバカしいことで白熱する夫婦運営を続行せざるをえなくなったわけです。
で、自分がそこで悩んでいたら、
他の家庭はどうなのかなって気になるじゃないですか。
カッコつけるっていうことができないサラマは、けっこうあけっぴろげなので、当時、よく、
「うち、揉める時に子供の前だろうがおかまいなくめっちゃ議論が白熱するんだけれど、私そういう状況マジ嫌でさ。
みんな旦那さんとは口論にならんの?子供のいるところではいったん置いておいて寝た後とかに改めて「さぁ、昼間の続きをしようか」みたいに再開するの?それとも、もしかして価値観合い過ぎて揉めることって滅多にないとか?」
と、ストレートに手の内を明かしながらいろーーんな女性に尋ねたりしていたわけです。
この頃は、社会問題や時事問題を取り扱わない夫婦がそんなにいるとは知らなかったww
そうすると、やっぱり、みんな夫婦で意見対立はするんですってね
ただ、私がインタビューした家庭に限って言えば、
「夫がひかないから私がひく。だって私も子供に言い争う姿をみせたくないもん」
と、妻が土俵から下りるかたちで未然に諍いを防ぐ家庭がけっこう多い印象を受けたんです。
そこで気づいたんですけれども、
30代40代の女性って、私に限らず、配偶者との意見対立を苦手とする人ってそこそこ多いみたいなんですよね。
こういう女性たちって、私みたいな、口論や議論の類が生じない穏やかな家庭環境で育ったんじゃないかと思ったんですが、どうなんでしょうか。
なぜ家庭で口論が生じなかったか?
彼女たちの母親が、私の母親のようにうまく立ち回っていたからなのではない??
一般に、子供って、同性の親の振る舞いに影響を受けるといわれませんか?
その一般論にあまり違和感ないサラマです。
私たちの世代においてさえ、
「意見対立するぐらいならば黙って自分が我慢する」というやり方で家庭内の問題を処理していく女性が多いという事実に鑑みると、
私たちは家庭内でうまく立ち回って環境の安定を図ってきた昭和世代の自分の母親を無意識にモデルにしているのではないか?と気づいたんです。
でも、
50年代とか60年代に人格形成期を過ごしていて、
70年代や80年代の日本の風潮が求める振る舞いをしてきた我々の母世代の、
その振る舞い方って令和以降を生きる我が子たちに引き継いでいくべきなんでしょうかね?
うちの母親が、
家庭という場を居心地の良く維持してくれてたその最大動機が、子供たちの居心地だったっていうのは疑いのない事実。
しかしながら、
感謝しつつもサラマけっこう冷静に思うんですよ、
母も無私100%だったわけはなく、昭和という世相が<妻>の立場にそう求めたからそう振舞わざるを得なかったという要素もいくぶんにかあるはずだって。
あの時代の女性ってのは、うちの母に限らず、自分の置かれた立場においてそういうふうに振舞わなければ評価されなかった。
置かれた環境で居場所を確保するため。
置かれた時代を生き抜くため。
昭和女が生存戦略として家庭内の諍いを避けていたという要素は否定できないですよね。
同性の親である母親のそういう態度を無意識に受け継いだのが私たち世代の〈諍い下手〉の女性なんだなと捉えて考えてみると。
サラマなんかはユルいんでね、自分自身のことを考えたら、
ハト派だったことで損したこともあったかもしれないけれども得もあったはずで、
それなりに人生楽しくやってきたからそれでいいじゃんってなふうにまとめられるんですけれども、
20年後の世界を生きる子供たちのことを考えた時に、
まったく摩擦を排除した環境で育てることってどうなんだろうとふっと思ったわけです。
19歳でヨーロッパに来て、
驚くほど交渉や議論がうまい同世代の子たちと出会って度肝を抜かれた私ですが、
今思えば、受けた教育以上に、家庭内における<議論>や<交渉>というものとの距離感が違ったのではないかなと、子を育てる今になって思ったわけです。
我が子たちが成長した暁、
価値観の対立のなかでうまく折衝しながら自分の意見を通していく能力は、2020年現在以上に求められることが予想される。
他人と意見衝突を避けていたらやっていけない。
やっていけないというのは、
評価されて高いペイのポジションにつけないという意味でなくて、衝突や対立に毎度毎度ストレスを受けていたら健康に生活できないという意味です。
現在のヨーロッパがそうであるように、
バックグラウンドが違う人間が入り混じる環境ってのは、
一般に、伝えるべきことはすべて言語化して伝えていかねばならんわけですよ。
誰も配慮してくれない、汲んでくれない。
日本が鎖国にでも踏み切らない限り、
向こう20年かけて到達するのは〈今以上に他人の心情を察するという行為が少なくなった世界〉じゃないかと思う私です。
家庭内で揉めるのがストレスだったサラマなんですが、
「私が親から引き継いだ昭和女性の振る舞い方をここで断ち切って家庭内において衝突や対立をありふれたものにしまうことには、デメリットもあれどもメリットが全くないわけではないかもしれなかもしれないな。」と、
だって、メリットだけの出来事、デメリットだけの出来事なんて存在しないものね!
そういうふうに「頻度も高くないんだし、家庭内で大揉めに揉めてもいいかもしんない」と思い始めた矢先、
昨年夏の一時帰国にて、
数年ぶりに出会った古い友人から、かなり衝撃的にして非常に深く考えさせられる話を聞くことになったのでした
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