たんぽぽ、苦いです。癌に効くと言われてるもの。

フキノトウ、ゴーヤ、枇杷の種、たんぽぽ、共通して苦い。

 

日本は、あちこちで、除草剤まくので、うっかりタンポポが

つめない。下記のように自分で育てるのが一番かも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先日、 イチジクのコンポートを作ろうと、購入しました。

 

毎年買って、作っています。

 

今年のイチジクは、ことのほか小さくて小粒なものが多くて。

 

B級品しかないとか思い、ぶつぶつと心の中で、小さいことに文句を言っていました。

 

すると、 イチジクの精霊なのか、イチジク自身のことばなのか。

 

「今年は、猛暑で、ことのほか暑く、しかも雨は降ったと思うとおかしくて。

 

この大変さの中一生懸命実をつけました」

と言われました。

 

はっとしました。思わず平謝りで、実をつけてくれたことに感謝いたしました。

 

わたしたちが、ものすごい暑さのなかで、クーラーでなんとかしのいでいるとき

植物も、動物も自力で必死で生きてるのに。

 

思いが及びませんでした。

 

昨日、枇杷の木を剪定しました。枇杷は一見すると暑さには強く何の影響も

受けていないように見えます。

 

それが、葉をよく観察してると、やはり、昨年の長雨、豪雨、今年の猛暑のせいか

葉が例年に比べて、よくないのです。

 

枇杷も、がんばっていたんだと思います。

 

熊も、山で食べ物が得られないので、街におりてきます。山に設置したソーラーパネルも

80度くらいまで、熱くなってるのでしょうか。

 

人間は、環境汚染をしては いけないと感じる日々です。

 

メイさんの動画、いつも、考えさせられます。停電にそなえてるつもりですが。

 

果たして、実際には乗り越えられるか。やはり、水とトイレが厳いし、食事の

支度はどのくらいできるか、考えます。

 

 

 

 

とおこの詩の世界

 

 

 

だれも自分が蝶だなんて思わない

 

蝶に変身して

 

空を飛ぶ日がくるなんて夢にも思わない

 

青虫でいるときは

 

 

           とおこ 詩集飛んでより

 

飛んで

 

 

崖から飛ぶのは怖い

 

ゆっくりとスローモーションで落ちてゆくこの快感

 

激突することはない

飛ぶことができる

 

たたきつけられる前に思い出せばよい

 

飛び方を忘れてしまったのに

飛べないと信じているのに

 

魂は恐れを手放して

飛んでみろという

 

 

             とおこ詩集飛んでより

 

第二詩集の題名です。

 

わたしたちは 自分で信じてる自分より、はるかに広大な存在です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

物が多ければ、部屋は片付かず、掃除はしにくく。

つまり、埃の中、カビもいっぱいいる環境で、生きてることになりますね。

カビこそ、要注意です。

 

わたしも、気をつけないと。

私も、転載させていただきます。

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 【 病気を引き寄せる理由 】 

私が医師として働きながら、数え切れない人たちの身体と病気を診てきて、そしてなによりおびただしい数の生活の「場」、

 

つまり何十年のリアルな生活の舞台となった自宅を見てきて、絶対に間違いないと確信していることがあります。

 

 それは、 「 自宅にモノがあふれている人ほど病気をする 」 という事実です。もっと正確に表現するなら、 「 長く使われないモノは確実にその持ち主のエネルギー(生命力、精力、精神力、気力)を奪ってゆき、持ち主が発揮できたはずの自己治癒力をなくしてしまう 」 ということ。

 

 私には、またおひとり忘れられない患者さんがいます。70代の女性で、その昔、普通に仕事をしながら旅行に行ったり、おいしいものを食べたり、特にファッションを楽しむのが大好きで、毎月のように新しい洋服を買っていたそうです。あるとき身体を壊したのがきっかけで、生活保護を受けながら暮らすことになったのですが、徐々に精神も壊れていき、ひとりで通院することもままならず、私が自宅に診療に赴くことになりました。

 

 初めて彼女のお宅を訪ねたとき、驚いたのは部屋にうずたかく積まれた段ボールの山でした。「○○さん、もしかしてもうすぐ引越しするんですか?」と尋ねたほどです。壊れかけのベッドに腰掛けたその患者さんを診察するために、私の座る場所を作ろうと、まず段ボール箱をずらさねばなりませんでした。

 

 あらためて見回すと、大きなタンスが2つ。その中はほとんど衣類だと言っていました。さらにカーテンレールに端から端まで、女優さんの衣装のようなドレスやコートが掛けられています。何年前のものか分からないくらいのクリーニング後のビニール袋がそのままかぶせてあるものもたくさんありました。そして、段ボールのなかもまた、古い衣類・衣装類だということでした。

 

テーブルの上には、粉茶のパッケージが何十と積まれ、引き出物らしい食器の箱などもすきまというすきまに積んであります。 「恥ずかしいですね。やっぱり懐かしくてなかなか捨てられなくて。」 その女性の体格や活動力(いわゆるADL)を考えても、部屋で見た洋服の99%は着られることはないだろう・・・。

 

そう感じながら、何度もお宅に出向き、長い時間をかけて食事を変えること、薬を減らすことなど説得してゆきましたが、精神症状が悪化した結果、半年ほどしたころ、施設に入ることになり、それからそんなにたたないうちに彼女が亡くなったことを聞きました。

 

 

 一方で、「なにもない」というくらい、部屋にモノがないお宅もあります。片付いているか散らかっているかではなく、もともとモノが「ない」のです。 午前中の早い時間でも布団は押し入れにしまってある。

 

部屋にはちゃぶ台と、カレンダーだけ。台所には炊飯器と電気ポットくらい。ヘルパーさんが買ってきてくれたものは、冷蔵庫内か棚に分けてしまってある。

 

その冷蔵庫内も自分で作った麦茶くらいしか入っていない。服は引き出しのケースに1つのみで、きちんとたたんでしまってある。・・・この男性はもと大企業の幹部でお金には相当余裕のある患者さんでした。

 

いつも明るく私たちを出迎えてくれて、リハビリもスムーズに進んだこともあり、もとの通院に戻ることができました。

 

 自宅、自室に持ち込む「モノ」。私たちが手に入れた「品」。 それがお金を出して自分で買ったものであれ、他人からもらったものであれ、そして手作りの品であっても、大量生産された工業製品、例えばちょっとした電化製品であっても。 ・・・私は、あるときから、こうしたあらゆる「モノ」は、ただの「物体」ではなくて、それが人間がなんらかの意志、意図を持って作りだし、人の手から手に渡った「品」であるなら、そこには必ずその品の「想い」があるのだと感じるようになりました。

 

価格の高い、安いは関係なく、その「想い」とはわかりやすく言えば「期待」なのです。 「もっと使って欲しい、私をもっと触って欲しい、せっかくあなたのもとに来たのだから役に立ちたい・・・」 そういった、「期待」が品物から発せられている。

 

か細いものだとしても確かに声がします。それは、あなたの役に立ちたくて、待っているのです。 その「期待」という想いは全体で大きなものとなって、私たちに働きかけ続けます。毎日のように私たちに応えて欲しいと想う、その想いは私たちから確実にエネルギーを取り去ってゆきます。

 

自然界の植物や動物、石の一個などもっと強い力で私たちが応えてくれるのを待っています。 もしもその品物、・・・それがお気に入りの食器であっても、100円のボールペンの1本であっても(私の最高の仕事の相棒は、三菱鉛筆のuni「ジェットストリーム・黒・0.7mm」です。あまりに好きすぎて、1日中、胸ポケットに挿しています。)、使い古しの机であっても、傷だらけのノートパソコンであっても・・・「大好きだよ、仕事がはかどるよ、なんてかわいいんだろう、ずっと一緒だよ」そう言える品なら、確実のその道具や作品は、もはや単なる物体のレベルを超えた想いをもった仲間として、私たちを助けてくれるのです。

私は、このボールペンを持っているだけで、止め処なく文章が頭のなかに流れだしてきます。仮に私がすべての文房具を奪われても、この0.7mmのジェットストリームがいてくれたら、何度でもやり直す自信が湧いてきます。 なので。

 

 

いつか使うだろう・・・。きっとまた役にたつことがあるだろうと、何年もしまい込んでいる古い服や、引き出物の食器、3点でいくら、で買ってしまった枕カバーやシーツ。たくさんのUSBメモリも、それを本当に求めている人たち、なくて困っている人たちに届けるべきなのです。

 

 私が患者さんの家でいつも心が痛くなるのは、独り暮らしなのに、何十組もの箸が無造作に箸立てや引き出しに埃をかぶって放置されている様です。

 

人にとって、とくに日本人にとって何よりも大切な食を通して身体やたましいに氣や力、エネルギーを運ぶための貴い道具である箸。これは、いつかお話できるかも知れませんが、日本人だけが横に置き、神様から「いただいた」食事を、実際に私たちの世界で受け取るまで、「神・食事」と「人間界」のいわば境(結界)として使います。

 

自身で吟味して、感謝して、毎回よく清めて選んで使うべき日常生活のなかでも最高レベルに大切な道具です。 食器でも家具でも、衣服でもカバンや小物、文房具でも電化製品でも、私は過去1年間使わなかったものは「私のもとに来てくれてありがとう」という想いを込めて、空になったペットボトルも「お茶や水を運んできてくれてありがとう」と言って、お別れします。

 

中古品として売れるものは格安で、次に役立ててくれる人に譲ります。そうして、できるだけ少なくても、大好きな品、想いが籠もり、その品の想いもまた感じられる品、をできるだけ絞って、最初から自宅や職場に無思慮に持ち込まないように気をつけています。

 

 そうすると、限られた数少ないモノが、大切な仲間に変わります。私たちの力を奪うどころか、その仲間と一緒にいるだけで私たち自身の力、精力、氣力、エネルギーを増し、悪いもの、悪い氣、悪い人間関係などあらゆる悪さえ近づけない在り方を作るのを助けてくれるのです。 

 

こうした生活、つまりなにを「捨てる」か、ではなく、むしろ「選び、大切に使い込む」ことにフォーカスした生活をこころがけるだけで、驚くほど、不思議なほどに、お金をかけて、努力したり、他人に取り入ったりしても手にはいらなかったであろうご縁をいただけることに気づきます。

 

 

もしかすると、モノをため込む毎に、私たちの一生にいただくべきご縁にどんどん気づかなくなって、実際その人に出逢っても、貴いご縁を意識する力を失ってゆくというなんとも大きな損失をこうむっているかも知れません。

 

そのご縁のなかでも最も重要なものは、親子の縁でしょう。 私は、糖尿病の父親の診療を行なっていますが、その条件として、食べたもの、飲んだものから、血圧・脈拍、血糖値、体重まで毎日記録してもらっています。

食事内容を私の教えたとおりに大きく変えて、ごはんを2合から2合半食べても、血糖は下がり、インスリンの量も減らしています。飲み薬は6種類あったものが1種類だけになりました。

 

 そんな父親の記録ノートは、徐々に日記のように、さまざまな考えやメモ、想いの書き込みまでされるようになりました。食事を抜いた理由として母親と喧嘩したから、などと理由も書かれています。そのなかで、YouTubeなどの動画を観た際に、興味を持った本の名前をメモすることも増えてきました。最近、そのメモに「方丈記」と書かれていったのです。なかなか書店にも行けないと言っているので、父に方丈記をプレゼントするのに合わせ、私もまた久しぶりに、これを読み直したのです。 

 

『 家をつくり、財を持てば、心これにしづめられて、性を失ふこと免れがたし。 』(家を大きく建て、財やものを持てば、心はそれにしばられてしまい、本来の生きる力を失わずにはいられない。---「方丈記」(方丈の庵の章・鴨長明著)より引用、現代語訳)

 

 私は、本もまた限られた一生の時間で逢うべき人に逢い、その著者と語らうことのできる機会をいただくご縁のひとつだと考えています。 だから、仮に過去1年間開いていない本だとしても、なかなか手放せないのです。本だけは。

 

 『 庵の内には、仏の御影一つ、法華経一部、琴一張、墨・紙・筆あり。そのほかは、すべて身を養ふに足るわずかの具なり。 』(庵のなかには、仏像がひとつ、「法華経」が一巻、琴が一張、墨と紙と筆がある。そのほかは、身を養うのに足りるわずかな生活道具だけである。---「方丈記」(前出・同)、現代語訳) 近々、83歳の父親のために、方丈記にはじまり、日本の三大随筆を楽しむというテーマの勉強会をやろうと考えています。死ぬまで学び、死ぬまで読み、考えることこそ、私は人生の最高の楽しみと信じていますし、ご縁を自身の「生」に生かしうる実践のひとつと考えて止まないからです。 秋分の日を前に、今もなお学び続ける父に敬意を表して。 (ふなきたけのり・百姓医者 王子北口内科クリニック診療部長 2025/09/21)