こんにちは!
ラコタのパイプを持つヒプノセラピスト
梅澤千恵子です。
先週、久しぶりに美容院へ行きました。
オーナーとは39年前に
表参道のサロンで出会いました。
私は10代の終わりの頃からずっと髪を
担当していただきました。
そのオーナーが独立をされて
学芸大学にお店をオープンして、
今年は30周年になるそうです。
30年前のオープン時に
「驚かないでね・・」
と事故に遭ったことを
伝えたそうです。
29年前のその話をしてくださる時に
「だから涙なくしては読めないの」
と
涙を堪えながら話すオーナーの姿を
鏡越しに見て
ブログを読んでくださっていると知り
オーナーの温かい気持ちやお心遣いを感じて
胸がいっぱいになりました。
前回の続きです。
救命救急センターの大部屋から
一般病棟へ移動することが決まりました。
1週間後に右腕の手術を受けるため
本来ならば整形外科病棟へ移る予定が
整形外科は満床で、ベッドが空くまで
形成外科病棟へ行くことになりました。
腕は砂袋の重みで、
動かないように固定され
ベッドごとの移動でした。
一般の人が利用しない
搬送用のエレベーターに乗る時に
入口の僅かな段差をベッド脚のキャスターが
とらえ、振動に痛みをこらえるのが
精一杯の状態でした。
この痛みはいつまで続くのだろう・・
救命救急センターにいる時は
痛みのショックで
だいぶ混乱していましたが
一般病棟に移るこの頃には
痛みは酷かったものの
状況は把握できるようになっていました。
形成外科の大部屋には6人の女性がいました。
右腕の肘を上げて砂袋を下げた鉄棒でベッドに固定され
右目の怪我で頭を上げることはできず
顔を左右にしか動かせなかったので
左右のベッドの方に挨拶をするのが
やっとでした。
形成外科の婦長さんや看護師さん、
エイドさんと呼ばれる看護補佐の方が
次々に挨拶に来ました。
皆さん朗らかな笑顔で挨拶されて、
大部屋の他の患者さんとのやりとりも
穏やかな雰囲気で
生命の危機と隣り合わせの
救命救急センターの緊迫感とは
まるで違う世界がありました。
一般病棟の面会時間は
午後2時から7時まで
家族と一部の友人の面会が
OKになりました。
そこで初めて
K大学院の所在地がわかりました。
家からかなり遠く
毎日2時間以上の道のりを通う両親は
大変だろうな〜と思ったものの
身動きが取れず
食事も食べさせてもらい
(トイレにも行けなかったので)
両親が来る面会時間を
心待ちにしていました。
母に大きめの手鏡を持ってきてもらい
鏡を左手で持ち
顔を覗き込んだとき
左側の眼の周りはところどころ
薄い紫色と青い色で腫れていました。
大きなガーゼが貼られた
顔の右側は黄色いオキシドールを塗った跡が
残っていました。
ガーゼの下の右眼には
アルミ製の保護眼帯がありました。
「こんなに腫れちゃった〜」と
鏡を覗き込んでいると
母が
「今日から日記を書きなさい」
と、
ノートとボールペンを差し出しました。
「え〜?日記?」
何を言い出すのだろう?
私の右腕は固定されて動かないのに・・
「書けないよ〜」と言おうとしたら、
「左手で書けるでしょう?」
とキッパリ!
母の断言に逆らう気持ちも起きず
左手で字を書いたことは勿論ないけれど
右手は指先も動かず、
感覚も失われていたので
左手で書いてみるか!と
右足を立ててクッションを使いノートを立てて
左手にボールペンを持ちたせてもらいました。
文字を書いてみると
ミミズが這っているような
ニョロニョロの線
字とも思えないような
大きさは不揃いで斜めに傾いた文字で
日記を書く〜!
パソコンの画面に
カーソルで字を書くような
幼い子供が初めて字を書くような
書いた本人さえ読みづらい
へんてこりんな文字が
数行をまたいで踊っている・・
たった数文字書くのに
ものすごい疲労感
これ、日記だろうか?
はなはだ疑問でした。
左手で字が書けたら
便利かもしれない
自らの力で
何かできることやってみる
誰かと少し話すこと
左手で日記を書くこと
その頃の私には
痛みから気を紛らわす
数少ない方法でした。
All my relations!




