久しぶりのブログですね。
ついつい忘れがちですが、
まあ思いついた時が吉日ということで。
今日のお話は、ちょっと前に僕のYouTubeの中で
お話したことでもありますが、
けっこう反響が大きかったので
あらためて、ここにも載せておこうと思いました。
今から10年くらい前に、
うつ病のような、本当に苦しい時期があって、
それは僕にとって、とてもインパクトの強い絶望体験だったんですね。
僕だけじゃなくて、まわりの家族にとっても、
つらい時期だったと思います。
まあ僕なんかよりも、もっとつらい経験している人は
世の中にたくさんいると思いますので、
そんなの絶望じゃないよって怒られちゃうかもしれませんが、
僕にとっては本当につらい時期でしたね。
比較的若いうちに開業して、バリバリ仕事をして、
夜中まで診療して、訪問診療をして、クリニックをどんどん大きくして、
たくさん患者さんを診て、成長と成功を目指して突き進んでいたのが、
突然ぱったりとエネルギー切れを起こして、
寝れない食べれない、頭の中はネガティブな思考で一杯、
そんなつらい時期を経験しました。
何をやっても、
薬をのんでも(何を隠そう薬が超苦手)頭から不安は取れないし、
ほとんど眠れないし、人が怖い、診療も怖い、
いつもドキドキしている、
いつも気分は重苦しく憂鬱、
そんな時期が2~3年くらいは続いたと思います。
自分は、比較的ポジティブで、
結構ストレスには強い人間かと思っていたんですが、
めちゃくちゃ弱くて、
自信とかプライドのようなものは、ことごとく崩れましたね。
はじめのうちは、周りに悟られないように、
自分一人でひっそり悩んでいたんですが、
そのうちに、自分一人では抱えられなくなって、
自分を隠すのを「あきらめた」んですね。
まずは奥さんに、すべて正直に自分の状況を話して、
息子にも、今お父さんは苦しいんだって話をして、
クリニックのスタッフにも、
できるだけ僕のストレスになる仕事をお任せして、
診療時間を減らして、仕事を減らして…
そうやって、自分のありのままを外に表現して、
少しずつエネルギーを取り戻していきました。
まあ今思い出しても、本当に暗黒のような時代ですが、
あの絶望体験が、
僕に「あきらめる」ってことを
最初に教えてくれた経験だったように思います。
その後、少しずつ元気を取り戻して、
YouTubeなんかを始めるようになって、
右脳回帰やノンデュアリティの世界を知って、
思考と距離ができるようになって感覚優位に生きられるようになって、
だいぶ生きるのが楽になったなあって思うんですが、
今あらためて、
この「あきらめる」っていうことが、
とっても大事なことなんだなって思うんですよね。
あきらめるって、なんか、
不本意に途中でやめてしまう、投げ出す、みたいな、
少しネガティブなイメージがある言葉ですよね。
最後まであきらめるな、
夢をあきらめるな、
みたいなことはよく言われます。
でも僕が今日お話ししたい「あきらめる」っていうのは、
その意味でのあきらめるではなくて、
「明らかに見極める」っていう意味でのあきらめる、なんです。
これ最近読んだ本に書いてあってとても共感したんですが、
あきらめるっていう言葉は、明らかに見極める、
つまり、
事実を事実のままに、一切の期待を排除して、ありのまま見ること、
と書いてあったんですね。
事実を事実として、一切の期待を排除して、ありのまま見る。
あきらめるっていうのは、事実を事実のまま、
そのまんま受け入れるってことなんですね。
これを読んで、すぐにピンと来たのが、
以前YouTubeで対談したまっすーさんに教えてもらった、
マインドフルネスの定義なんです。
マインドフルネスというのは、
目の前のことを、一切の価値判断を排除して、ありのまま見る、
ということです。
だいたいおんなじこと言ってますよね。
右脳回帰とかノンデュアリティを学んでいくと、
このマインドフルネスの意識が自然に育っていくように思います。
今目の前に起きていることを、価値判断を挟まずに、
ありのまま気づいている観察者の視点、気づきの視点。
その視点でいられるようになってきます。
この観察者の視点、気づきの視点が、
あきらめるということでもあるんですね。
苦しい時は、全然あきらめられなかったですね。
起きている出来事を、いつも自分の都合に合うか合わないかを判断して、
合わないものを何とか無くそう、消そう、コントロールしようとしていました。
起きている出来事に、現れていることに、
いつも抵抗や否定ばかりしていました。
でもそれでは全然うまくいかなかったですし、
その起きている出来事をコントロールしようという意識が、
余計苦しみを生んでいたんですよね。
なので、明らかに見極めるっていう意味での、
あきらめって、楽に生きる上でとっても大事なんですよね。
あきらめるっていう言葉と似たような言葉に、
手放しっていう言葉もありますね。
この手放しっていうのも同じですね。
期待とか執着を手放すってことです。
起きる出来事に対して、もしくは誰かや何かに対して、
こうあるべき、こうでなくてはならない、こうあってほしい、
そういう期待や執着を手放すということです。
こうあるべき、とか、こうなってほしい、というのは、
事実を事実として、あるがまま受け入れられていないってことですよね。
明らかに見極められていないってことです。
そういう期待や執着を手放して、
事実を、ありのまま見る、ありのまま受け入れるっていうことが、
大切なんですね。
僕は、絶望体験をきっかけに、
ある意味、自分をあきらめたんじゃないかと思います。
立派な自分、できる自分、強い自分、特別な自分、確かな自分、
そういった自分を、あきらめた。
というより、あきらめざるを得なかった。
自分がいかに小さくて無力な存在か、
ということをとことん思い知らされたんだと思います。
だけど、
それは悪いことではなくて、むしろ、
自分を生かしている大きな力の存在に気づけたとき、
でもあったように思います。
小さな自分を、あきらめ、手放したときに、
逆に大きな力の方、全体とか根源とか無とか空とか、
そういう人知の及ばない大きな力の方に
気づけたんじゃないかと思います。
だからこそ、非二元・ノンデュアリティの世界に導かれたように思いますし、
ノンデュアリティで言っている、
私はいないとかとか、全ては全自動に起きている、という
普通には理解しにくいメッセージが、
比較的違和感なく受け入れられたんだろうと思います。
ノンデュアリティの学びが深まるにつれて、
確かな自分、確かな私というものが少しずつあきらめられて、
大きな力の方への信頼感が増しているように思います。
自分が何かをしているというより、
大きな全体の流れの一つとして、
ただ起きるべきことが、ただ起きている。
僕たちは、その流れに、安心して乗っかっていればいいんだな、
そんな、いわばサレンダーとか明け渡しの感覚が、
育ってきているように思います。
自分をあきらめる、なんて怖いことのように思うかもしれませんし、
反発が生まれたり、なんだか虚無的に感じられるかもしれませんが、
でも実は、自分をあきらめて、
今ある現われに身を任せてサレンダーするっていうのが、
実は一番楽だったりするんですよね。
そこには虚無感や無力感なんてなくて、
大きな安心や解放感が、逆に感じられてきたりするんですね。
そんなことがだんだんわかってきた気がします。
なので、あの絶望体験は、その時はとてもつらかったですが、
今思うと、僕にとって、大事なことに気づかせてくれる、
貴重な体験だったんだと思います。
とはいえ、
僕のような絶望体験を皆さんにはお勧めできないので、
まずは目の前に起きていることに対して、
いかに評価、判断、期待という自分の解釈をくっつけているか、
ちょっと観察してみてください。
そこに気づいたら、そういった解釈を手放して、
事実を事実のまま、ありのまま受け入れてみてください。
起きていることに対する抵抗や否定が減るだけで、
大分生きるのが楽になるんじゃないかと思います。
僕も日々実践中です。
一緒にサレンダーしちゃいましょうね。
今回は、この辺で、ではまた~💕









