朝8時半、「ちょっとよろしいでしょうか」と施設から連絡が。

施設の母、部屋で転び訪問診療の先生に見て頂いたものの、痛みを訴えられるので、万一のことがあるから整形外科受診を勧められました、と。

 

どうにか予定を調整し、午後の診療に間に合うように施設へ駆け付ける。

 

骨折はしていなかったけれど、かなり痛みが強く辛そう。

夕食を済ませると父のベッドで横になってしまい、母のベッドに移動させるのは一苦労。お、重い!職員さんに手伝って頂きながら、母もずりずりちょっとずつ身体を動かしながら、頑張って定位置へ。職員さんはさすがプロだった。

 

椅子から洗面台へ移動する際に手すりに手が届かず滑ったとか!手すりを増やすべきだろうか・・。またケアマネさんや職員さん交えて相談せねば。

 

職員さんと協力しながら状態を起こして薬を飲ませたり、湿布を貼ったり。

 

 

「暗くなると寒いから早く帰りなさーい、皆待ってるでしょ、大丈夫だから」顔をしかめながら言ってくれる母。すーすー寝入ったのを見計らって帰宅。外はもう真っ暗。

 

  

帰宅してからは翌日の予定の延期のお願いや、3月末に2日続けて母の通院予定が入り、旅行予定をキャンセルしたり。

 

 

母が良くなるまで、当分遠方は行けないな。

行ける時にタイミング逃さずにピュッと。そう思うと今まで行けたお出かけがどれだけありがたかったのかと思う。

 

予定キャンセル連絡した時、大変だね、疲れすぎないようにね、と声かけて頂きありがたく。

 

以前みたいに振り回されて大変なグッタリ感はなかった。

 

正月に息子に泣かされて(私を心配してくれて面会は年一回でいいんじゃない発言)からの、自分が削られない為にどうするといいのかな?をよくよく考えたからかもしれないし、空いた瞬間にとるものもとりあえず行っている展覧会のおかげかもしれない。

 

施設に向かう中読んでいた河合寛次郎展の図録。初めて出会う寛次郎の言葉が。

 

「自分ハ此世へ喜ビヲサガシニ来タダケダ」

 

「イノチ イカシテ居ル喜ビ」

 

「苦シンデ居ヨウト 悲シンデ居ヨウト 怒ッテ居ヨウト 人ハドンナニ思ッテ居ヨウト 生命ハ喜ンデ居ルヨリ外ニ生キテハ居ナイ」

 

痩せて皮膚の緩んだ母の背中に湿布を貼りながら、いろんな解釈が出来るけれども、今の私はこの瞬間が寛次郎の言う「イノチ イカシテ居ル喜ビ」なんだろうなあ、などと考えたり。

 

寛次郎がもし私のいる状況にいたとして、きっと寛次郎はこの中でも「イノチは喜んでしかいない」と言い切ったろうし、この体験すらも作品に反映させただろうから。

 

そしておそらく、戦中戦後、寛次郎は私など足元にも及ばない厳しい体験を経て、芸術として昇華したからこそ、没後50年以上が経った今も彼の作品や言葉や思想が我々を魅力し、我々を根底から覆し、揺らがないように支えている。

 

彼の彫った大きな福々しい木の両手。あの掌に置かれた揺らぐちいさな球が、揺らぐ事なくすっぽりと包まれているように

 

 

 

寛次郎の言葉や生き様がほんものの生きる言葉として理解できるように、体験が準備されているように思えてならない。

 

いや、寛次郎の高潔な魂とその目指すところに触れた時に、今いる場所が反転するのだろうか。その裏にあるものが光を放つように視える目が開かれるのだろうか。

 

 

 

京都にある河井寛次郎記念館に訪れた時の感想はこちら↑

 

 

豊田市民芸館での河井寛次郎展↑