「私の好きなものの中には必ず私はいる」
河合寛次郎
民藝館がお好きなら河合寛次郎記念館もきっとお好きですよ!と、年若い素敵な知人から教えて頂き、春に思い切って一人旅へ。
冒頭にあげた河井寛次郎の言葉に強烈に胸打たれ、作品も人となりもよく知らないままになぜか行かなければならないと背中を押されるようにして出かけて行った。この旅は河井寛次郎記念館に行く為だけに企画した。人と物の関係を深く洞察し、生きる喜びを作り出す人の言葉だと思った。噛み締めるほどに味わい深い言葉。こんな言葉を残し、物を作り続けた人の家とその人の愛した物たち。一体それはどんなものなのだろう?
京都らしい町家、と思って入っていくと、見たことないような吹き抜けの居間!
階段も棚もテーブルも椅子も、さりげなく置かれた彫刻も花を生けた花瓶も古時計も、照明ですら!何もかもが統一感があり、一つの宇宙。
階段を昇りきった踊り場。床の木の色や軋み具合がただもう懐かしい。
真ん中が吹き抜けになっていて、階下を見下ろすとまた違った景色が。
ロープは搬入に使ったという。これもまた装飾品のような存在感。
切った丸太のテーブル。年輪が宇宙のようだ。
窓から向かいの展示室が見える。あれが寛次郎の作品!!胸が高鳴る。
なんなんだこれは!
作陶家として知られる河合寛次郎自らが設計した家。彼はここで作陶し、家族と暮らし、友と過ごした。
ここで、生活が営まれていたのだ。
家そのものが寛次郎の芸術なのだと、ただただ呆然と、そこに居るうちに時間が過ぎていく。
静けさに満ち満ちる二階の居間。
ぼんやりと畳に座り込んでこの空間にとけこんでしまいそうだ。
心地よい風が通り抜ける。
ここまででもう飽和状態だが、まだまだ見どころはこれから。
中庭を通って展示室へと向かう。
この縁側に座っていつまででも過ごせそうだ。
特徴のあるどっしりとした文字。
この文字と言葉の前で息がとまりそうなくらい胸打たれた。まさにまさにそうだなぁ・・・。本当にそうだ。
自分の買ったモノたちは、自分を買ってきたようなものなのだ・・・。
キセルやこまごまとしたものたちも寛次郎らしい。
寛次郎の作品にゆったりと触れられる小さな展示室。
ゆっくりと歩みをすすめていくと、作陶室があり、そのまた奥の奥、扉を開けた途端、そこには巨大な登り窯が。
今は使われていない登り窯は〆縄が飾られ、火の神様を祀る遺跡のようにすら見えた。
その荘厳さ。
熱い炎の燃ゆる音。
働く人々のざわめき。
火の神の灼熱の炎に焼き締められた土塊は、生命を得て窯から現れる。
作った当人も思いもよらない色が現れ、意図に反する時もあれば、人の思いを超えたものが現れもし、自らの手で作ったものに火の神の熱い息吹がかけられて完成に導かれたように感じたのではないだろうか。
つちぼこり立つ登り窯の階段を昇っていく時、祭壇へ向かう巫女のような、なにやら身の引き締まる思い。
家から出て歩いてみてよかった。
わたしはこの旅で、寛次郎が言うように自分を探していたのだ。
「どこかに自分が居るのだ ー出て歩く」
河井寛次郎
3時間近くいてもまだ飽きない。
そしてまた行きたくなる。
寛次郎が生きていた時代の息吹を
寛次郎が作陶や木彫や建築すべてに込めた思いをこの身で受け止めるために。
豊田市民芸館で開催された河合寛次郎展の感想はこちら↑