マリー・ローランサン展へ。

 

退屈な女より

もっと哀れなのは

さびしい女です。

 

さびしい女より

もっと哀れなのは

不幸な女です。

 

不幸な女より

もっと哀れなのは

棄てられた女です。

 

棄てられた女より

もっと哀れなのは

追われた女です。

 

追われた女より

もっと哀れなのは

死んだ女です。

 

死んだ女より

もっと哀れなのは

忘れられた女です。

          (「鎮静剤」マリー・ローランサン詩画集 堀口大學訳より)

 

 

1904年、スペインから来た23歳の若者、パブロ・ピカソがモンマルトルのラヴィニアン街にある「洗濯船」と呼ばれる奇妙な建物に住みつく。一人、また一人と若い画家や文学者が増え、そこからキュビスムがうまれ、時代が作られていった。

 

 

マリー・ローランサンは、キュビスムが生まれようとするまさにその時代に、美術学校で知り合ったジョルジュ・ブラックに連れられて洗濯船に出入りするようになり、詩人のアポリネールと恋に落ち、若い芸術家達との青春の日々を過ごす。彼女もまたキュビスムに影響を受けながらも独自の個性を花開かせ、画家として独り立ちしていく。

 

 

 

似顔絵の変化はまさにキュビスムを通過して、「マリー・ローランサンの絵」への歩みそのもの。

マリー・ローランサン 自画像(20歳) 1904年 マリー・ローランサン美術館

 

 

マリー・ローランサン 自画像(21歳) 1905年 マリー・ローランサン美術館

 

マリー・ローランサン 自画像(25歳) 1908年 マリー・ローランサン美術館

 

マリー・ローランサン 自画像(40代) 1927年頃 マリー・ローランサン美術館

 

 

マリー・ローランサンといえばデフォルメされた大きな黒いアーモンド型の眼、細長く白い顔と身体。灰色とピンクと青。

マリー・ローランサンといえば、と思い起こされる特徴を手に入れるまでの軌跡。

 

マリー・ローランサン パブロ・ピカソ 1908年 マリー・ローランサン美術館

 

アヴィニョンの娘達の影響を受けたようなアフリカのお面のような横顔。ピカソが若い!!(当たり前だけど、不思議。)

 

 

 

彼女を一躍有名にしたという「若い女たち」

マリー・ローランサン 若い女たち 1910年ー11年(撮影不可の為、サイトより)ストックホルム近代美術館

 

ドイツ人画商ヴィルヘルム・ウーデは彼女の個展を開くが、売れ行きははかばかしくない。個展の最終日、ウーデはマリーの自宅に寄って絵を見せてほしいと頼む。個展には出さなかった残った絵を次々に見せた時、この一枚の絵にウーデの眼がとまった。

「この絵で彼女の名声をを押し上げてやろう」と決意して。しかして、この一枚の絵は高額な金額でスウェーデンの貴族ロルフ・ド・マレの元へ。マリーは一躍売れっ子画家になっていく。

 

ロルフ・ド・マレはバレエ団の主催者でもあったそうだ。彼の舞台で踊る若いバレリーナを彷彿とさせる灰色の幽玄な乙女たちに惹かれたのだろうか。

 

女たちは絵の中で踊る。

舞台で踊るバレリーナと観るものもいれば、一人の女性の様々な顔と見た人もいるだろう。何を想起させるかは見た者の経験と想い。

(もともとのバレエは愛人斡旋の場であったことを考えると、ちょっと複雑。パパ活・・。当時もまだその名残はあったのだろうか。)

 

 

展示ではジョルジュ・ブラック、パブロ・ピカソ、ジャン・メッツァンジェ、ドローネー。キュビスムを代表する画家たちの作品が次々に登場する。(どれもアーティゾン美術館の収蔵品)

 

 

 

ジョルジュ・ブラック パル(テーブルの上のBASSの瓶)アーティゾン美術館

※パル→Pale Ale イギリスの伝統的なビール会社の銘柄 

ジョルジュ・ブラックとピカソ、「ザイルに繋がれた二人」はキュビスムの遊びに興じ、次々と実験を試みていく。

 

パブロ・ピカソ ブルゴーニュのマール瓶、グラス、新聞紙 1913年 アーティゾン美術館

新聞紙のコラージュや砂を混ぜた実験的な技法、「総合的キュビスム」の時代の作品!近寄ってざらざらした表面をいろんな角度から眺める楽しさ。まだテーブルと瓶やグラスのモチーフの造形がわかる。

 

ロベール・ドローネー 街の窓 1912年 アーティゾン美術館

繊細な色のモザイク。優しい色合いがとても好きだ。色の競演。詩人のアポリネールがドローネーの試みをキュビスムと区別するためにオルフィスムと呼んだのだが、確かに淡い明るい色彩は異質。

 

ジャン・メッツァンジェ キュビスム的風景 1911-12年 アーティゾン美術館

 

西洋美術館開催のキュビスム展では疾走感溢れる自転車乗りの作品が展示されていたメッツアンジェ。こんな作品も描いていたのかとしばし見惚れる。

 

 

 

 

ローランサンは彼らの中で生きながらも、キュビスムとは異なる自分の絵を模索しながら、描き続けていく。

 

モナ・リザ盗難事件を機にローランサンはアポリネールと別れ(モナ・リザがルーブル美術館から忽然と消え、アポリネールとピカソの共通の友人が美術品の盗難に関わっていた為、アポリネールは逮捕、一週間後に釈放される。)、愛する母の突然の死の孤独からか、出会ったばかりのドイツ人と結婚してしまう。新婚旅行先で第一次世界大戦が勃発。

ローランサンの祖国フランスとドイツは敵国に。戸籍上ドイツ人となったローランサンは夫と共にフランスへ帰ることなくスペインへ。波乱万丈!!20代の若い娘が体験するには中々に厳しい!

 

冒頭の詩は、スペイン時代のローランサンが書いたものだった。この詩だけは、様々な媒体で見知っており、今回初めてローランサンの書いたものだと知った。(訳者堀口大學はスペイン留学時にローランサンと出逢い、ローランサンの散歩のお伴だったとも!)

 

酒浸りの夫、異国での孤独な生活、かつての恋人アポリネールは出征し別の女性と婚約。そんな時に書かれた詩は、胸を打つ。

 

死んだ女より

もっと哀れなのは

忘れられた女です。

 

ルイ・マルクーシ ギョーム・アポリネールの肖像 1912年、1920年 エッチング 愛知県美術館

 

 

アポリネールは戦後、別の女性と結婚し、1918年にスペイン風邪であっけなく世を去った。彼の部屋の寝室には、マリーの描いた洗濯船に集う若き芸術家達の絵が飾られていたという。

 

 

 

 

 

 

マリー・ローランサンとモード展の時には知らなかった彼女の人生に出逢えるひと時。

 

(続きはマリー・ローランサン 時代を写す眼展 ②へ)

 

 

 

 

 

 

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