我が家のルーツの命日 | 【水戸っぽBlog】

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水戸っぽとは、水戸の三ぽい、【理屈っぽい、骨っぽい、怒りっぽい】または、【理屈っぽい、怒りっぽい、飽きっぽい】から来ています。その他、水戸生まれの水戸育ちの人間を【水戸っぽ】ともいいます。水戸っぽ深川隆成の日々の気持ちを綴っています。

今日は、記録に残っている深川家の最初の方の命日です。

江戸時代の文久4年(1864年)、深川重(ジュウ)さんは生まれました。
重という名前ですが、女性です。
生まれたのは、今の愛媛県の山深い別子銅山。
17世紀に発見され、元禄時代に日本一の銅山となりました。
深川家は、その前からずっと先祖代々ずっと鉱山で続いてきたそうです。
我が家は筑波山の西から東にかけて勢力を築いて新皇と称した平将門の家紋と同じです。茨城県南、県西地区でよく売られている将門煎餅が同じ家紋なので、何かの御土産の時にはいつも利用しています。
とはいえ、平将門との血縁関係はわかりません。
ただ、平家の落人は壇の浦の戦いの後は、山奥に落ち延び、鉱山で暮らしたという事もあり、先祖は落人なのでしょう。
そして、鉱山はどの世の中でも、ずっと治外法権で江戸時代になって関所が出来ても、新しい鉱山が発見されて人手が必要になると、あちこちから新しい稼ぎ先に移っていけたと伺います。
深川家のルーツは、茨城県辺りで勇猛を馳せた東国の武士から、壇ノ浦の戦いの後に、四国の山奥を点々とした様です。800年以上の流浪になります。
それが、明治になり、一気に関東に戻って来ます。

1881年(明治14年)に栃木県の足尾銅山に大量の鉱脈が見つかった事で、銅を精製する為の技術を持った鉱山技師が必要になり、各地から足尾に集まった中に先祖がいました。

その初代の男性の姓は、深川ではなく、名前は星野寅平さんといって、長野県出身であったそうです。
江戸時代から明治にかけて、まだ電車も発達していない時に、野を越え山を越えて、信州から四国、そして関東へ。腕一本で仕事をして歩いたのでした。
その男性を追って四国から歩いて船に乗って、またずっと数百キロ歩いて追いかけた女性が深川重さんでした。四国から栃木まで、歩いて女性の一人旅。今でも考えられない話。愛の力はとてつもなく強いものですね。
そして、足尾銅山は、一時期は日本全体の40%を超えた日本一の大鉱山になったとの事。
しかし、当時は公害対策の観念が少なく、大気汚染や有害な排水などで、足尾鉱毒事件が明治中期には大問題になります。
そして、寅平さんも四十半ばで鉱毒で肺をやられて急逝してしまいます。

その時に、重さんは5人だか沢山の子供を抱えていたそうですが、足尾より安全な場所を求めて、日立銅山に移ります。

日立銅山は鉱毒に対して様々な対策や補償を行い、大正2年には東洋一の大煙突を作り、当時として最高の公害対策を施した銅山でした。

茨城県日立市の日立銅山に一家で移住して、重さんは女手一つで子供を育てていき、子孫も含めて日立銅山に落ち着きます。

そして、1945年2月8日。第二次世界大戦が終わるのを見る前に81歳でこの世を去りました。

重さんが恋人を追いかけていかなければ、私の命もありませんでした。

江戸時代生まれで明治を生きた人が、四国から関東まで住まいを変え、更に、家族を抱えて栃木から茨城へなど、普通の出自であれば考えなかった事でしょう。
鉱山という、当時としては特殊な世界に生きた人だからこそ、出来たのではないかと思います。

私の父から、我が家があるのは、重さんのお陰だと、耳にタコが出来るほど聴かされました。
そして、重さんのお陰で、我が家のルーツの故郷に帰って来たとも聴かされました。

父は地元茨城県の日立市にある茨城大学工学部を出て、水戸の会社に就職して水戸に家を建てました。
私は、東京に本社のある会社に就職して、最初の赴任先は長野県諏訪市に丸8年間住み、川崎や東京の勤務の後に、牛久に来て、今はつくば市。
徐々に南下して、かつて平将門が治めた領地まで来ました。

平将門が他界したのは940年。1081年前。
平家が壇ノ浦の戦いで敗れて、平家側が落武者になったのは、1185年。今から836年前。
平将門の他界から壇ノ浦の戦いまでも245年の間が空いています。
血脈が仮にあったとしても、相当入れ替わり薄まっているでしょう。

ただ、はっきりしていることは、ずっと先祖代々山奥の鉱山という特殊な世界で何百年もずっと生きてきた家系で平家の落武者であったという話を代々、口伝えの事。ちゃんとした家系図などはありません。背景からしても、家系図なんてあるわけもありません。先祖に弓の得意な人がいたとの話も聴いた事はあります。それも、ちゃんとした巻物などありません。あくまでも口伝です。

それにしても、ずっと四国の山奥にいた一族から、言い伝えの先祖の生誕の地まで歩いて追いかけた一人の若い女性の勇気と執念とも言える愛がなければ、今の我が家は存在していませんでした。

文久、元治、慶應、明治、大正、昭和と和暦で六つの時代を生きた81年間。

凄い人です。

重さん、本当に、本当に、ありがとうございます。

お陰で、私は今を生きています。

私なりに頑張り続けます。