米国アリゾナ州にツーソン(Tucson)という街がある。日本語表記ではツーソンとなっているが、この読み方ではおそらく向こうの人には通じないと思う。かといって、アルファベットを見ても何と発音するのか見当がつかない。タクソン?テュウクソン?一番近い発音はトゥ―スンだろう。フェニックスに次ぐアリゾナ第2の都市だが、周囲を砂漠に囲まれた土地だ。
 
1971年の冬から72年の春にかけて、ほとんどお金を持たずに北米を一人旅した。大学1年時、半年休学して衝動的にサンフランシスコ空港に到着したときは、何の旅行計画もなくただ不安しかなかった。とりあえず移動しようとグレイハウンドバスの周遊パスを買って、寒さを避けて南へ動いた。2週間ほど後に上記のツーソンに漂着して、後に書く理由でしばらく滞在することになった。
 
その後ヒッチハイクに目覚めて、周遊パスも払い戻して現金化し、15ドル以内しか使えない無銭旅行をした。南方の州を巡って東海岸にたどり着き、カナダも経て西海岸に戻り、ただ乗り走行距離は2万キロ以上。安全な旅とは言えず危ない目にも遭遇、今でいえばLGBTの男性に迫られたことも数回。文明社会には未だAIDSが出現してなかったころだ。しかし楽しかった。今も真夜中の山道を彷徨いながらとことこ走り続けるのが趣味の一つであり、自分はそういう性癖なのだろうと思う。
 
そういえば北海道男児生還のニュースに感動。これまではお母さんと一緒でないと眠れなかったごく普通の、どちらかと言えば甘えっ子タイプの児童が暗闇の山中を5時間も歩き、小屋の中とはいえ水だけで130時間も生き延びた。大人が知らないだけで、子供は皆たくましく耐える力があり、それが奇跡に見えるのかもしれない。
 
 ツーソンが思い出の地である理由は、友人Wとの出会いがあったからだ。ツーソン方面に向かっていたグレイハウンドの車中で、隣に座った少女と片言で会話した。頭の中は毎夜のねぐらをどう探すかというのが第一で、しかも金を払う余裕はない。それまでは夜行バス内やバス駅のベンチ、温暖なサンディエゴの海岸では野宿もした。そうするとその娘さんは「ツーソンで降りるのなら大学のフラタナティに行ったら?」、と教えてくれた。文化の違いで和訳語がない(クラブハウス?)、そのフラタナティで出会ったW(自分と同い年のアリゾナ大生)が、「ここより僕の家に泊まれよ」という感じで両親と住む邸宅に連れて行ってくれた。そして夢のような1週間を過ごさせていただいた。
 
 その後3か月ほど放浪旅を続けたため各地に多くの思い出がある。カメラは持っていなかった(持っていてもやがて強奪されたはず)ので、あるのは記憶と残像だけだ。その中でもツーソンのそれは特に鮮明でいつかまた行ってみたいと思い続けていた。30年以上たって2005年にサンディエゴでWと再会した。彼の両親はすでに亡くなり、ツーソンを去ってラホヤに住んでいた。奇しくも昔僕が野宿した海岸のすぐそば、瀟洒な住宅地だ。弁護士になったということで、これも奇遇なことにバイオサイエンスに関係する方面で活躍中。
 
 Wとその家族がすでにいないとわかってもツーソンへの想いは消えず、2015年、やっと訪れることができた。今回はヒッチハイクではなく航空機で、そして昔と違って懐にはお金も少し。機上から眺めるアリゾナの砂漠は荒涼としていて、こんなところでよく放浪できたものだと感心した。夕方到着して安ホテルに一泊。食事はお店で買ったボロナソーセージとビールで、食べながら涙がじわり。かの旅行中はボロナをはさんだパンが最大のご馳走だった。
 
 翌早朝はいつもの旅先ジョグ、まず一番に訪れたのは今回最大のスポット。Wに教えてもらった住所を頼りに、彼らが住んでいたあのお屋敷にたどり着いた。もう他人の手に渡っているので訪れるわけにはいかないが、早朝で誰も通らないのでしばし周りを徘徊して懐かしさにひたった。
 
 
 その後は荷物をホテルに預けてバックパックを背負い、一日中ジョグで走り回った。40年以上たっているのにツーソンの街並み、そして生真面目な学生だった彼と恋人が案内してくれたアリゾナ大学のキャンパスも、眼に焼き付いている昔と全然変わっていなかった。車がなかなか止まってくれなくて渇きに苦しんだサボテン砂漠も、脱水に強くなった身体で気持ちよく駆け抜けた。
 
ここ数年のなかで最高の旅を経験することができた。あと何年体がもつかわからないが、次の機会があればどこを彷徨いながら走ろうかと考えている。