困ったときや困難を抱える時にこそ、私は、新たな道を開いていくために、創造的な方法をお勧めします。
それというのも、最近は色々なところで困難が起こるからか、問題の解決の方法が、自分が成長し、何かを新しく獲得していく、創造していくのではなくて、
むしろ、自分を不自由にしている相手を何らかの方法で弱めること、意図的に排除することで、願いを叶えるというのを見かけることが多いように思うのです。
それでも、自分の身に困難なことが起こる時や、不都合が起こるときというのは、そのきっかけによって現在の自分を解き放ち、今の自分を超えていくための力が、自分の中から開こうとする時でもあるんですよね。
その一方で、自分の中に困難を切り開いていくための力があることを知らなかったり、そのチャンスを選ぶことが出来ないと、速やかに不都合をなくす、弱める方法を取ることで、対処をしてしまうことが少なくないようなんです。
それはたとえば、コロナが始まった時、ある地方の風習により、良識のある大人が夜に沢山集まって、その原因となる国を特定しながら、国の力が無くなるようにみんなで祈るといったもの。(完全に呪いですが、その地方では、今でも名の知れたやり方みたいなんですね…汗。)
当時私は、いまだにこの方法が活きていることに大変驚いたのですが、日本だけでなく、世界中で、やはり主流な方法として、手を変え、品を変え活用されているようなんですよね。
(呪いに限らず、プチ呪い習慣は、誹謗中傷や嫌がらせ、相手の邪魔や妨害をしたり、足を引っ張る、マッティングで相手を叩くなど…とやっぱり色々ありますよね…汗。)
そして、この方法を得意とする国や地域を調べたり、観ていると、やはりその後、思うような発展がなかったり、困難を抱えることになっています。
そのうえ、場合によっては、相手には大して影響がないうえに、何も変わらないどころか、呪わば穴ふたつで、その方法を選択した側が責任を取ることになり、自分の力を無くしていくんですよね…。
それでも、「いやいや、私は器用ですので、自分は幸せに、相手は困るようにと上手に祈っています…。」と言ったところで、やはり、目の前の誰かに自分の一部を投影し観ている以上、自分の良いようには、コントロールが出来ないのが現実です。
そして、仮にエネルギーがどのように働くかを捉えてみても、やはり、自分を一段も二段も低いレベルに閉じ込めてしまうようなんです。
だからこそ、私がおすすめしたいのは、不都合な相手にこそ、魂の導きがあるよう祈ること。(本質的にしあわせになれるよう祈ること。)
これだったり、するんです。
それというのは、霊的に見た時に、相手が本来向かいたいのは、やはり皆と同じ、この方向性だと思うんてす。
それでも、あるべき方向性をなかなか定められない、自分の中に眠る力を見い出せないからこそ、困難な道や安易な方法を選んでしまうんだと思うんですよね。
そのため、不都合に思う相手にこそ、どれだけ自分がやられても、嫌な思いをしても、祈ってみる。
するとどうなるかというと、
有り難いことに、相手との困難な縁をとおして、自分も心を開いて、エネルギーをあげながら、成長する気流に乗れる。新しい流れに乗れるんです。
(投影を取り戻し、自分の力に変えるんですね。そして、相手もまた遠くから送られる、見知らぬ愛によって、少しずつ自分の道に向かい、開いていかれると思います。)
そのため、相手も自分と同じように、本質の願いのままに、導かれるように祈ることが出来ると、その出会いをきっかけとして、自分を成長させて、より良い自分や、新しい道に自分を導くことが出来るんです。
だからこそ、思いのままにやり返すのではなくて、
常に、不都合な相手が、
魂の導きに向かえますように。
本質の導きに向かえますように。
しあわせになれますように。
私も、
魂の導きに向かえますように。
本質の導きに向かえますように。
もっともっとしあわせになれますように。
と祈ること。
これが、困難な世にありながらも、本来の自分の力を取り戻し、理想的な創造のあり方なのではないかと思っています。
(* 有名なところでは、不運にもご主人を亡くされた、オノヨ−コや安倍昭恵さんが犯人を赦し、愛を送り続ける行為というのも、投影を取り戻しながら、自分も相手も新しく生きていくための、より良く生きていくための力に変える。このことなんだと思っています。)