【 博多での 苦難と危険 】 | 高山右近研究室のブログ

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監修 右近研究家・久保田典彦
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     ※ 完訳 フロイス 「 日本史 」 再通読 ( 24 )

 

 

● ( 第1部 ・ 第20章 )  1559年のこと

  [ 松田 ・ 川崎 訳 ] では、第6巻第18章になります。

 

 “ ガーゴ師と ギリエルメ修道士が、博多の町で経験した 大いなる

  苦難と危険について ”

 

 

・ 豊後国主 ・ 大友義鎮が、支配下に置いていた 筑前の博多に、

 教会と司祭館を建てるための地所を贈ったので、

 ガーゴ師とフェルナンデス修道士たちが派遣され、宣教活動を行いました。

 

・ 1年後の 1559年になって、大友義鎮に対する謀叛が起こり、

 博多の町を のっとってしまいました。

 

 フェルナンデス修道士たちや 教会用具を、ただちに平戸に送りましたが、

 ガーゴ師と ギリエルメ修道士たちは、大変な苦難と危険を 経験することになりました。

 

 携えていたものは、ことごとく奪われてしまい、

 着ていた わずかな物まで、はぎ取られてしまいました。

 そのあと、殺されることを 覚悟しました。

 

 「 ある者は 我らに対して、銀を寄こせ と要求して 抜刀し、別の者

  は 槍で脅迫し、また別の者は 我らを殺そうとして 引きずった。

  そして彼らは、司祭たちを殺すために、自分たちの村へ連行しよう

  とした。

 

  ある者は 我らを殺そうと、ひどく激昂してつかみかかり、

  また 他の連中は、殺すべきではない、と言いながら 我らを守っ

  た。

 

  その後、司祭たちは、殺すことになった者を入れる囲いの中に連れ

  こまれた。

  無数の群衆が、そのぐるりに殺到した。

  ある人々は 奴らを撲殺せよ と言い、

  別の人々は 斬ってしまえ と叫び、

  奴らは 国を滅ぼす者だとか、その他 多くの悪口を言った。」

 

・ そのうち、「 彼らを殺しては ならぬ 」 との通達が届きました。

 人々が、彼らを殺さなかった理由は、

 彼らをそこに留めておけば、ポルトガル船から、幾多の軍需品を期待出来そうと考えたからで、

 逃亡しないように、常に 厳重に 見張られていました。

 

・ カトク ・ ジョアンという、謀叛人たちにも知られている キリシタンが、司祭たちを救出して、ひそかに隠れ住まわせて、守りました。

 司祭たちの所に、博多や平戸のキリシタン達から、あらゆる必需品が届けられてきました。

 

・ 博多の町も 豊後への道中も、戦場になっていましたので、

 博多を去ることも 豊後へ向かうことも不可能でした。

 

 キリシタン達は、司祭たちを女装させて 馬に乗せ、極秘のうちに

脱出させることに 成功しました。

 

 豊後国主 ・ 大友義鎮たちは、司祭たちが 無事に到着したのを見て

喜びました。

 豊後のキリシタン達は、口で表わし得ないほどの喜びをもって、

 司祭たちを迎えたのでした。

 

 

 

 

 

 

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