【 信長 と 弥助 】 | 高山右近研究室のブログ

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監修 右近研究家・久保田典彦
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※ 「 弥助 ・ 弥介 」 に関する史料は、ごくわずかしかありません。

 

 9年前の、2012.8.24 の ブログでも取り上げていますので、

 まずは、そちらを見ていただこうと思います。

 

 

切支丹国より、黒坊主参り候 | 高山右近研究室のブログ (ameblo.jp)

 

 

 ( 追加 )

・ 「 信長公記 」 ( 太田牛一 ・ 著 )

 然るに、彼黒坊被成御扶持、名をハ 号弥助と、

 さや巻之のし付 幷 私宅等迄 被仰付、

 依時 御道具など もたされられ候。

 

・ 「 1581年の ルイス ・ フロイスの書簡 」

 堺の町を出んとした時、

 丈の非常に高い ビジタドールのパードレ ( ヴァリニアーノ ) 及び

 我らと同行した黒奴の色を見るため、無数の人が街路に待ち受けて

いた。

 堺は自由の市であるが、多数の民衆と武士が集まったので、

 我らの一行が、狭い町を通過する際、数軒の店を荒らしたにもかかわらず、苦情を言う者はなかった。

 

 堺を出て、駄馬35頭、荷持人足3 ・ 40人、及び 我らの乗馬が約

同数あり、黒奴もまた 乗馬するよう、しきりに勧められた。

 道を進むに従って、人が出迎え、また 多数の武士が同行して、必要な馬ひきを供給し、馬上で出迎えた武士も 多数であった。

 

 

● 史実として言えそうなことは、

 

・ 弥助は、いつかの時点で、

 南蛮船で、ポルトガルの貿易商人たちの奴隷 ・ 従者として、日本に

 やってきました。

 

・ 長崎などに、ポルトガル船 ( 南蛮船 ) が寄港した時の様子が、

南蛮屛風に描かれていますが、

 九州では、真っ黒な肌の黒人を見るのは、特別に珍しいことではなかったのですが、

 

 堺や京都の人たち ・ 織田信長にとっては、初体験のことであり、

 堺や京都の町では、初めて見る 黒人を見物しようとして、多くの人

たちが集まり、大変な騒ぎとなりました。

 

・ 巡察師 ヴァリニアーノが、都地区を巡察するためにやって来た時に、弥助も、従者として同行しています。

 

・ 信長にとっては、黒人は 初めてのことでしたので、最初は驚き、

 本当の 真っ黒な肌の色であることを、容易に 信じることが出来ませんでした。

 

・ この 黒人青年は、年齢は 26、7歳。

 少しは 日本語が話せましたので、信長と簡単な会話が出来ました。

 十人力の 力持ち。健康で、特技も持っていました。

 

・ 信長は、この黒人青年が気に入り、

 正式に 家臣として、扶持 ( ふち ・ 米で与えられる給与 ) や 私宅

を与えて、召し抱えました。

 

・ 信長が 各地に出かける時には、小姓として 同行することがしばしばで、

 “ 本能寺の変 ” の時にも、少数だった家臣の中に 一緒にいて、活躍しました。

 

・ 神父である宣教師が、奴隷を買い取って、使用人として働かせることは ありえないことですので、

 もともとは、

 南蛮船で、宣教師たちと行動を共にすることが多かったポルトガル

商人が、奴隷として買い取り、生活の面倒は見ながら、使用人として

各種の働きのために 使っていたのでした。

 

・ 宣教師たちの周辺には、

 信仰的にも 敬虔な貿易商人たちがいて、

 何かと、宣教師たちの働きのために 協力していました。

 

 敬虔な商人たちは、現地人を買い取って使用人にする時には、

 もともと いろんな宗教に染まっていますので、

 神父たちに頼んで、洗礼を授けてもらい、クリスチャンにして、使用していきました。

 

・ 弥助と呼ばれる この黒人青年も、洗礼を授けられて、洗礼名を、

 「 イサーキ 」 ( ポルトガル名 ) ・ 「 イサケ 」 ( エチオピア名 ) と言ったようです。

 ( アブラハムの子どもである 「 イサク 」 のことですが )

 

 これが、信長の家臣となった時に、

 信長によって、 「 やすけ 」 ( 弥助 ・ 弥介 ) と呼ばれるようになった

ようです。

 

・ 信長には、黒人に対する差別意識は ありません。

 むしろ、初めて接した 真っ黒な肌の黒人に 感動しています。

 

 その彼が、日本語を 或る程度 理解していて、受け答えを日本語で

出来ますし、知恵 ・ 知識がありそうですし、力持ちですし ・・・・・

 是非、手元において、武士として召し抱えたいと思ったほどでした。

 

 そのような 信長の思いに 応えるように、

 巡察師の方から申し出て、

 弥助の主人が、新しく 信長に代わることになりました。

 ( 勿論、同行していた、もともとの主人のポルトガル商人も、快く

 応じた上でのことでしょうが )

 

・ 信長は、この黒人青年を、家臣として重用しますし、

 弥助も、その好意に応えて、大切な働きをしていったのでした。

 

 家臣として、信長の移動に合わせて 行動していきましたので、

 どこに行っても、弥助は、注目度 NO. 1!

 あわせて、

 信長の “ 人の評価のあり方 ” の 宣伝塔 ともなったのでした。

 

 “ 信長様は、このような人物をも、使えると思えば、格式やしきたり

  を超えて、登用される! ”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

弥助 - Wikipedia

 

 

 

 

 

 

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 ( 1年前の今日、アップしたブログ )

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