【 曲直瀬道三 と 施薬院全宗 】 | 高山右近研究室のブログ

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監修 右近研究家・久保田典彦
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                  曲直瀬道三

 

 

●  曲直瀬道三 ( まなせ どうさん )

    施薬院全宗 ( やくいん ぜんそう )

     ※ 「 施 」 の字は 読まれないことが多く、中世以降は、

       おもに 「 やくいん 」 と呼ばれていました。

 

 両人とも、還俗 ( げんぞく ) ・ 僧籍を離れて、医師となったことは

共通しています。

 

 曲直瀬道三は、戦国時代 ・ 日本随一の名医で、

 診察 ・ 治療した相手として、将軍 足利義輝 ・ 三好長慶 ・ 松永久秀

・ 正親町 ( おおぎまち ) 天皇 ・ 織田信長などが 名を連ねていますよ。

 

 そして、晩年 ・ 77歳の時に、府内 ( 大分県 ) から 難病の治療を受けるために、はるばる訪ねて来た ベルショール ・ デ ・ フィゲイレド宣教師との出会いが、道三が キリシタンになる 決定的な きっかけとなりました。

 

 

https://ameblo.jp/ukon-takayama/entry-11254616070.html

 

 

 施薬院全宗は、比叡山 菜樹院の住職でしたが、織田信長による

比叡山焼き討ち の後、還俗 ( げんぞく ) して、

 曲直瀬道三のもとに入門し、漢方医学を極めました。

 

 

● 戦国の世にあって、人の生命を大切に思い、身分の上下を問わず施療していった 師弟の二人でしたが、

 

 後に、曲直瀬道三は キリシタンとなり、

 施薬院全宗は、天下人の豊臣秀吉と結びつき、侍医となり ・ 側近と

なっていき、バテレン ( 宣教師 ) 達に 激しく敵対し、

 果ては、天正15年 ( 1587年 ) 発布の

 「 定 」 ( さだめ ・ 伴天連追放令 ) の文面を準備する者とさえ、なっていったのでした。

 

 医師として、 「 いのち 」 の重さ ・ 大切さを思い ・ こだわり ・向き合ってきたはずですが、

 師弟 ・ 二人の道は、正反対の方向へと進んで行くことになりました。

 

 この世の権力と結びつき、組み入れられていくと、

 真理が見えなくなってしまい、

 歪んでいってしまう ━━ という気がします。

 

 

 いきなりですが、

 髙山右近 が、そのような 誘惑 ( テンタサン ) から守られ、

 正義を まっとうすることが出来たことは ━━ 幸いなことでした。

 感謝主!

 
 
     ※ 今日 ( 8/30 ) の、 返り咲きの 【 白 大芙蓉 】
 
 
 
 
       玄関先で 【 髙山右近 ・ 久保田へようこそ! 】

 

 

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