【 「 福島正則 」 の こと 】 | 高山右近研究室のブログ

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監修 右近研究家・久保田典彦
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● 「 福島正則 」 という武将を、ご存知ですか?

 

 天正11年 ( 1583年 ) の 「 賤ヶ岳の戦い 」 の時に、

“ 賤ヶ岳の七本槍 ” と言われた 七将の一人で、その中でも、一番に活躍した武将です。

 

 髙山右近は この時、 岩崎山の砦にいましたが、柴田勝家側の

佐久間盛政の軍に対して、生涯一度の敗戦を経験しています。

 

● 福島正則のことで、一般に よく知られていますのは、

「 黒田節 」 に歌われていることでしょう。

 

 黒田家 家臣の 母里 ( もり ) 友信に、

大杯の酒を飲み干すように勧めて、

「 飲み干せたなら、好きな褒美をとらす!」 と 豪語して、

 結果、飲み干した 友信に、豊臣秀吉からもらった 家宝の名槍

「 日本号 」 を与えることになった、という 不名誉な話です。

 

● このような 豪傑肌の 福島正則でしたが、

 

 「 関ヶ原の戦い 」 では、石田三成とは 肌が合わなかったため、

徳川家康側について、宇喜多秀家勢と戦っています。

 戦後、安芸広島が与えられ、後に、広島藩主となりました。

 

 このような 豪傑肌の 福島正則でしたが、

 自らは キリシタンでは ありませんでしたが、一貫して、

“ キリシタン 保護政策 ” を堅持していました。

 

● モレホン神父 ・ 著 「 日本殉教録 」 で 紹介されていることですが、

 

 1614年2月 と言えば、徳川幕府によって、

厳しい キリスト教 「 大禁教令 」 が出された直後のことですが、

 福島正則は、江戸から、広島の修道院長 宛に、丁重な書簡を書いています。

 

 「 貴殿らの追放を 悲しむ。しかし、将軍の命令であるから、こうしないわけには ゆかない。

 然るべき時には、パードレ方の事を 思い出すであろう。」

 

 藩の諸奉行が、キリシタン達から、ロザリオ ・ 聖像などを取り上げ、正則の所に持っていくと、

 「 これほど沢山、持ってくる必要は ない。

 ロザリオなどの品は、“ 聖なる品 ” として、丁重に保存せよ。」

 

 彼の家臣である キリシタン武将4人に、

 「 信仰を棄てよ。それは、余に対する忠節である。」

と 命じますが、彼らは、

 「 我らは、主君のため、生命を捧げることを 希望している。

 しかし、残念ながら、この問題については、主君の意に従うわけには ゆかない。

 もし それで 不十分ならば、我らや妻子 その他みな、死の覚悟が出来ている。」

と 答えて、従いません。

 主君である 福島正則は、このことを見逃して、前より 更に 彼らを重んじました。

 

 ・・・・・・・

 

● その他にも、同じような話が伝わっているのですが、

 

 自ら、キリシタンではなかった 福島正則が、厳しい、幕府による

「 大禁教令 」 下で、

 このような キリシタン保護の立場を堅持したのには、

 

 ずっと 一緒に 豊臣秀吉に仕えてきた、

 キリシタンの 髙山右近や、小西行長 ・ 黒田官兵衛 たちの姿を

ずっと見てきたことが、背景にあり、大きな影響を受けたからだ、と

思われます。