Q. “ 御伽衆 ” (おとぎしゅう) というのは、どういう人たちなのですか。
A. 「お伽話」とか、「御伽草子」 などとして使われる 「おとぎ ・ お伽」 という言葉ですが、もともとの意味は “ 夜のつれづれを慰めたり、病人の介抱をすること ” ━━ ということです。
「伽」(とぎ)の 一番の方法として行われたことは、「御咄」(おはなし) することでしたので、「御伽話」 や 「御伽草子」 という言い方は、そこから起こっていきました。
室町時代の末期から、 「御伽衆」 といって、“ 貴人のそばに侍して、お相手を務める ” ことを役目とした人たちが現われました。
御伽の中身が、御咄(おはなし)相手をするのが中心でしたから、「御咄衆」(おはなししゅう) とも呼ばれました。
「御伽」 そのものは、書物の講釈をして聴かせたり、笛を吹いて聞かせるなどの芸事をしたりする場合も含まれますから、「咄」(はなし)は 「伽」(とぎ) の一部分でした。
元来は、「御伽」 と 「御咄」 は別のものでしたが、御咄が中心になっていき、「御伽衆」 とは、「御咄衆」 のこととして 理解されるようになっていきました。
戦国時代の大名の間で、「御伽衆」 を召し抱えることが よく行われました。
周防(すおう) の大内氏には、23人の「御伽衆」が、武田信玄には 12人、毛利元就には 3人、前田利家には 6人 ・・・・・ という風でしたが、最も多くの 御伽衆を持っていたのは 豊臣秀吉 で、30数名という多くの人たちがいました。
「御伽衆」 としては、戦(いくさ)や 一国の政治に関する 豊富な体験があること ・ 博学多識であること ・ 話術が巧みであること ・ 特殊な芸能を身につけていること ・ 他国の情勢に通じていること ━━ などが 求められました。
戦歴が豊富 ・ 特殊な芸能 ・ 博学多識 ・ 他国の事情に通じているような人物が、「御伽衆」 に選ばれました。
貧困な境遇から 身を起こしたがゆえに、無学 ・ 無教養の イメージ がつきまとう秀吉でしたが、それ故に、貪欲に 伝統を吸収しつつ、新しい文化の潮流にも理解を示し、それを主導するほどになっていきました。
秀吉の 御伽衆として選ばれた人たちは、
芸能 ・ 文筆の達人として、細川幽斎 ・ 大村由己(ゆうこ)・ 曽呂利新左衛門 など。
また、秀吉の周囲には、名だたる 茶人たちがいました。
千利休 ・ 古田織部 ・ 今井宗薫 ・・・・・
そして、かっての敵どうしで 茶人でもあった 荒木村重 ・・・・・ などなど。
彼らから、多くのことを吸収していき、天下人としての素地を作っていったのでした。